事件が起こされるたびに考えることがあります。
事件がおこる、と書かないには理由があります。
いじめというものの目的は何かということも問題です。
絶対に、された方にも、という言葉がついてきますが、
まず、何が原因で、どうしてこうなったか、
必ず、複雑な背景があったり、
全く反対に、ただ単にイライラ解消のために、
だれでもよかった、と言うものも中にあります。
ここに、今度は、強さ、弱さ論まで登場です。
私は、ある話を思い出したのです。
足に障害がある子供さんをお母さんがはげまして、
階段を上がらせていたら、
隣に母親と子供がきて、母親が子供に、
あの子のように、ではなく、元気に上がってみなさい、
と言ったそうで、これを聞いた、先ほどのお母さんも、
子供さんも、唇をかみしめたといいます。
私は、幼い時、病気を改善させる薬の副作用で太ってしまい、
就学期間、まるまる、いじめに遭ってきました。
すれ違いざまの大人でさえ、
唾を吐きかけ、頭に石を投げつける、
こんなことなど、珍しいことではありませんでした。
では、私が何をしたのでしょうか。
病気を治そうとしたのが悪かったのでしょうか。
前述の子供さんも何らかの原因で、
不自由になられたのでしょう。この方が何かしましたか。
自分を高めるのではなく、
自分は自分を甘やかし、弱い心でいるのを、
人を踏みつけることで、強く思っているにすぎません。
優越感、自負心、皆、少なからずもっているでしょう。
しかし、いじめなどしない、させない、許さない、
弱い心に打ち勝つ心をもってこそ、
本当に強いといえるのではないでしょうか。