彼女は、夜が近づくたびに胸がざわつくのを知っていた。


部屋の明かりがやわらかく落ち着いていくほどに、ほのかな緊張と期待にも似たものが体の奥でうずく。

それは単なる欲求の高まりではない。

彼女にとって“日常の重さが静かにほどけていく前触れ”だった。


一日の終わり。


子どもがテレビに集中しているとき、夫が風呂場で湯気に包まれているとき。

わずかな隙間に、彼女の心が引き寄せられていく。

やめようと決めた日でさえ、指先が落ち着かなくなる。

胸の内が、言葉にならないざわつきで満たされていく。
押し戻そうとしても、波は引かない。


「どうしてこんなに…」

そう思いながら、体の奥にうまく説明できない“緊張”がせり上がってくる。


心理的ストレスが身体感覚として浮上する時の感覚。

それを放置すると、思考は細かいところまで苛立ちや不安に染まっていく。


そして彼女は知っている。

あの短い解放が訪れれば、胸に抱え込んだ重さは一瞬だけ溶けるのだと。


育児の音、家事の連続、時間に追い立てられる感覚。


自分の気持ちより先に動かないといけない生活の中で、彼女は自分の“心の余白”をどこかに置き忘れていた。


気付けば、胸の奥が常に少しだけ張りつめているようだった。


彼女が思春期に覚えたあの行為は、最初は興味から始まった。


しかし、生活の中で息苦しさを感じるようになると、それは“自分を落ち着かせる手段”へ変わっていった。


過去に一度だけ受けた電車での痴漢の記憶は、長く心に影を落としている。

何もできなかった自分、声を出せなかった自分、怖さで体が固まったあの日。

あの経験は無意識の底に沈み、彼女の「自分の体を自分でコントロールしたい」という欲求を強くした。


そして自慰行為は、
「自分の体を自分で動かせる」という安心感を与えてくれた。

それは快感以上に、彼女にとって重要な感覚だった。


夫との時間は満足している。

愛情もあるし、拒否もない。

だけれど、夫と触れ合った後のほうが逆に落ち着かなくなる日があった。

温かさや安心で満たされたはずなのに、
心の奥の“まだ触れられていない不安”が動き始める。


身体は満足しても、心の深いところは別の渇きを抱えていた。


その渇きは、
「誰にも邪魔されずに、ただ自分ひとりで整えたい」
という強い衝動に変わっていく。


夜、家中の気配がゆっくりと沈んでいく。


子どもの寝息が小さな波のように続き、隣の部屋では夫の呼吸が整っている。


その音を確かめると、彼女の内側で、別の波が静かに動き始める。


体の奥で芽生えるこの感覚は、


男性が“何かが溜まって苦しいから出す”という種類のものとは違っていた。

むしろ、心の底に沈んでいる重たい塊が浮上してくるような感覚に近い。


その塊は、日中の小さな我慢や、誰にも言えない不安、母としての責任感、
そして、無意識に抱えてきた過去の恐怖の名残りでできている。


それらは普段、彼女の中の深いところに押し込められている。

取り出そうとすると、胸がつまる。

そして、夜になるとそれらが形を持ちはじめる。


彼女がひとりの時間をつくると、
感覚の中心が少しずつ外側の世界から、自分の内側へと移っていく。


外の音、家の匂い、日中の心配事。

日常の雑踏が遠ざかり、
代わりに、自分の中だけで響く“静けさ”が育っていく。


彼女は行為そのものよりも “意識の変化” を求めていた。


やがて、身体は反応を始める。

最初は、体の奥にある小さな硬い塊がゆっくり温まるような感覚。

背中の固まっていた筋肉がほどけ、
肩に乗っていた重さが、静かに落ちていく。


呼吸が自然と深くなる。

そして、心の中の張りつめた糸が一本ずつ緩んでいく。


波は徐々に強まっていき、
意識が波に揺られるみたいにふっと浮く。

体の感覚が細かく震えるたび、
心の深いところから緊張がこぼれ落ちていく。


最も強い波が押し寄せるとき、

彼女の意識は一瞬だけ「空白」になる。


過去も、疲れも、不安も、
すべてが背景に溶けて見えなくなる。


体が震えるのは、快感というよりも、
心の奥に閉じ込められていたものが一気に流れ出るからだった。


深い呼吸が自然と体に落ちてきて、
視界が静かに澄んでいく。


これは男性の射精のように

“溜まったものを出す解放”ではない。


むしろ、
押し込めすぎた心の緊張が、一時的にほどけていく解放だった。


波が落ち着いたあと、

彼女は胸の奥が驚くほど静かになっているのを感じる。


しかし同時に、
「またやってしまった」という罪悪感も顔を出す。


けれど、どちらも嘘ではなかった。
安堵も、罪悪感も、どちらも彼女の本音だった。


彼女は知っている。本当は、やめたい。

でも、これがないと心が張り詰めて限界に近づく。


だから彼女は今日も、息をするように行為へと手を伸ばしてしまう。