少年は、家の空気を読むことに疲れるほど敏感だった。
母の感情は、家全体を支配し、父は単身赴任で不在だった。その隙間で、少年はいつも「正しい答え」を探し続けていた。
──怒らせないように。
──失望させないように。
──余計な欲望を見せないように。
気づけば、彼は“自分の感じ方”をどこかへ置き去りにし、他者の顔色を伺い、その反応を基準にして生きる癖を身につけていた。
成長してから、女性と向き合う場面に触れるようになったとき、それは奇妙な形で姿を現した。
女性が性的に高まっていく身体の変化──それ自体は自然で美しいもののはずなのに、青年の胸の奥には不意にざわつきが走った。
「どうして自分にはわからない感覚を、彼女たちは持っているのだろう」
その問いはやがて、不安へと姿を変えていった。
彼女たちの絶頂を前にすると、自分の身体の反応は急に小さく、頼りないもののように感じられた。
“自分の射精は、本当に価値があるのか?”
誰がそんなことを言ったわけでもない。ただ、他者の基準でしか自分を測れない人生を過ごしてきた青年には、その比較がいつの間にか自動的に発動してしまう。
動画でも、実際の場面でも、女性が絶頂に達していく様子を目にすると、胸の奥に冷たい影のようなものが落ちた。
彼女たちの反応が強ければ強いほど、男の内側で「自分の弱さ」が膨らんでいく。
理解したい。
分かりたい。
追いつきたい。
そんな願いが募る一方で、手を伸ばせば伸ばすほど、自分が遠ざかっていくような気がした。
青年はある夜、ふと気づいた。
「これは女性への劣等感じゃなくて、ずっと自分自身に向けて抱えてきた否定なんじゃないか」
その思いは胸の奥でかすかに揺れたまま、まだ言葉にはならなかった。
けれど、確かにそこにあった。
他者の歓びが、自分の価値を揺らすように感じてしまう──その奇妙な痛み。
***
幼少期に親の顔色を伺い続けた男性は、自分自身の感覚よりも他者の評価や反応を基準に自己価値を判断しやすくなる。
その傾向を持った男性は、女性のオーガズムという「自分では体験できない感覚」に触れたとき、その反応の強さや持続時間を“比較可能な尺度”として無意識に扱ってしまう。
すると、女性の身体反応は、そのまま「他者基準の評価指標」として内面に入り込み、男性自身の身体的快感である射精と比べてしまう。
本来なら比較不可能であるはずの二つの体験が、心理的には“優劣をつけられる対象”として処理される。
女性の反応が強く見えるほど、自身の体験は小さく見え、自分の価値が脅かされる感覚に結びつく。
その結果、女性のオーガズムに対する羨望や劣等感が生まれ、同時に「理解したい」「自分もその感覚に近づきたい」という願望が高まる。
これは性的な刺激というより、自己理解・他者理解への渇望と、長年の他者基準の自己評価が結びついた心理的現象であり、羞恥や不安、承認欲求が複雑に絡み合うことで形成される。