わたしは戦争終結について、以前から、ある1つの疑問を抱いていました。それは第二次世界大戦の初期において、なぜイギリスはドイツと和平を結ばなかったのか、というパズルです。周知の通り、1940年5月に発足したチャーチル戦時内閣は、フランスが降伏寸前まで追い詰められ、アメリカは「孤立主義」を保っており、ソ連はドイツとの不可侵条約により参戦が望めない、孤立した絶望的な状況に追い込まれていました。それにもかかわらず、イギリスは圧倒的な優勢を誇っていたナチス・ドイツの和平の呼びかけに応じず、徹底抗戦を決断しました。どうしてなのでしょう。

 

民主主義のために抵抗したイギリス?

この点について、千々和泰明氏(防衛研究所)は『戦争はいかに終結したか』(中央公論新社、2021年)で示した理論による説明を試みています。かれは戦争終結の因果関係をいくつかの主要な仮説にまとめています。第1の仮説は、「優勢勢力側にとって『将来の危険』が大きく『現在の犠牲』が小さい場合、戦争終結の形態は『紛争原因の根本的解決』の極に傾く」です。第二次世界大戦の終わり方は、これを裏づけるものです。第2の仮説は、「優勢勢力側にとっての『将来の危険』が小さく『現在の犠牲』が大きい場合、戦争終結の形態は『妥協的和平』の極に傾く」です。湾岸戦争の帰結は、このパターンに当てはまります。(同書、18-19ページ)。千々和氏によれば、イギリスのドイツに対する徹底抗戦は、第1の仮説にそっているということのようです。

「ドイツと海峡を隔てるイギリスには、勝算がまったくないわけではなかった。何よりもイギリスは、まだアメリカ参戦の可能性があると信じることができた。イギリスは、自国を守ろうとしている民主主義という価値が『現在の犠牲』に耐えるのに見合うものだと考え、また構造的なパワー・バランスを自国に有利なかたちで変えうる可能性が客観的に存在すると判断することができた…劣勢勢力側が考えなければならないのが、自らの損害受忍度についてである。チャーチルのイギリスは民主主義のため…『現在の犠牲』に耐え、成功した」(同書、71、266ページ)。

ここからは、イギリスがドイツに屈しなかった理由は、主に3つあるように読めます。すなわち、アメリカの参戦への期待とそれによるバランス・オブ・パワーの好ましい変化、民主主義を守る価値の大きさです。ここでは、これらの要因がイギリスに継戦を決断させたのかを検証してみたいと思います。

戦争に勝つ見込みの過大評価―チャーチルの楽観主義―
戦争終結のバーゲニング理論を構築したライター氏が『いかに戦争は終わるのか』(プリンストン大学出版局、2009年)で提示した命題が正しければ、国家は戦況が芳しくなくても、最終的な勝利を収められると期待すれば、妥協したがりません。1940年春におけるイギリスの継戦の決定は、この仮説によって説明できそうです。チャーチル政権と1940年5月の政策決定を詳細に研究したデーヴィッド・レイノルズ氏(ケンブリッジ大学)は、チャーチルが対独戦争の行方について、他の政治指導者より楽観視していたのは、アメリカの参戦の可能性に、根拠に乏しい期待を抱いていたことを指摘しています。同時に、かれはチャーチルがドイツとの和平を拒み、戦争を続けることを1940年5月時点で決断した要因として、ドイツ経済の脆弱性を過大評価していたことを以下のように指摘しています。

「根底にある予測は…ドイツが食料や原材料とりわけ石油不足に陥るというものだった…もし海上封鎖を維持することができれば、その後、1940‐41年冬までに、石油と食品の不十分な供給は、ヨーロッパにおけるドイツの支配を弱めるだろうし、1941年中頃までに『ドイツは軍需品の交換が難しくなるだろう』。チャーチルは、ドイツの経済が過剰拡張にあるという、この予測を共有していたようである…1940年5月、かれは『もしわれわれがもう何か月か踏ん張れることさえできれば、立場は全般的に違ったものになる』と主張していた」(David Reynolds, "Churchill and the British 'Decision' to Fight on in 1940: Right Policy, Wrong Reasons," in Richard Langhorne, ed., Diplomacy and Intelligence during the Second World War: Essays in Honour of F. H. Hinsley, Cambridge University Press, 1985, pp. 157-158) 。



要するに、チャーチルはドイツ経済の弱さに勝機を見出していたということです。もう1つチャーチルを継戦に傾けた要因は、ドイツに対する爆撃の効果への期待でした。レイノルズ氏によれば、「爆撃は…新しい武器に加えられた…かれ(チャーチル)の見解において、ヒトラーを倒せるであろう唯一のことは『この国からの重爆撃機によるナチス本土への破壊的かつ壊滅的な攻撃』であった…9月3日の閣議に関するメモランダムにおいて…かれは…戦闘機はわれわれを救うが、爆撃機だけでも勝利の手段となる」と認識していたのです(前掲論文、156ページ)。しかしながら、これらの予測は、残念ながら、外れてしまいました。ナチス・ドイツはイギリスが考えていたほど経済に弱さを抱えていたわけもなければ、爆撃により弱体化されたりしたわけでもなく、士気をくじかれたりしたわけでもありませんでした。

アメリカのサポート
それでは、アメリカの参戦について、イギリスの指導者は、どのように考えていたのでしょうか。再びレイノルズ氏の分析をみてみましょう。「参謀本部が1940年5月時点で明らかにしたことは、アメリカが『全面的な経済および財政援助をわれわれに進んで与えてくれるであろう、それなしでは、われわれは継戦のいかなる成功も考えられない』という主要な予測であった…イギリスの指導者は1940年中頃において、アメリカの早期の宣戦布告を望んでいた…しかし目下の決定的なかれらの考えは、イギリスの士気に与えそうな影響であった。6月15日、チャーチルはルーズベルトに直接こう述べていた。わたしは合衆国が参戦するという場合、もちろん、遠征軍の観点で考えているわけではありません、そんなことが問題外であることは、わたしも分かっています。わたしの心にあるのは、そのようなアメリカの決定が生み出す途方もない精神的効果なのです」(前掲論文、161ページ)。

 

こうした歴史証拠からいえることの1つは、チャーチルをはじめとするイギリスの指導層は、直接、アメリカ軍がヨーロッパに軍隊を派遣することに淡い期待を抱いていた反面、現実的には、アメリカの経済支援とモラルサポートを当てにしていたことが浮き彫りになります。しかしながら、イギリスが最も望んでいたアメリカの対独「参戦」は、日本の真珠湾攻撃を待たなければなりませんでした。
 

レトリックと実際の意図
最後に、イギリスが多大な犠牲を払ってでも守ろうとしていた「価値」とは何かを検討してみましょう。チャーチルは1940年5月13日の下院における演説において、「どんな犠牲を払ってでも勝利する…勝利なくして、そこに生き残り(survival)はない」と強気の発言しています。ここでいう「生き残り」には、イギリスの民主主義を守ることも含まれているのかもしれませんが、おそらく独立と主権を守るという意味合いが強いのではないでしょうか。

 

こうした雄弁な発言から、チャーチルは対独講和など全く考えていない強靭な指導者といったイメージでとらえられがちですが、レイノルズ氏によれば、かれは結果としてドイツと和平交渉を行うことも視野に入れていました。

 

「チャーチルは、1940年5月が適当なタイミングではないとしても、最終的な和平交渉を排除していなかった。他の閣僚と同じく、かれの目的は全面的な勝利ではなく…ヒトラーとナチズムの排除ならびにドイツの征服から逃れることだったのだろう」(前掲論文、152-153ページ)。

 

チャーチルがチェンバレンのミュンヘン会談におけるヒトラーへの宥和を、ドイツにおけるヒトラーへの謀反の芽を摘んでしまったことを主な理由に批判していたことを考えれば、かれのこの対独戦略は合点がいきます。

幻の因果関係
こうしたエビデンスが示す理論的・経験的含意は、『戦争はいかにして終結したか』のロジックや事例の解釈に疑問を投げかけます。

 

第1に、戦争終結の主要仮説への「損害受忍度」という変数の追加が、方法論的に意味はあるのかということです。1940年5月のイギリスの継戦の決定は、既存の簡潔な仮説で説明できないのでしょうか。おそらく、損害受忍度の変数なくしても、チャーチル政権の対独政策は説明できるでしょう。戦争終結プロセスにおいて、1つのパズルは、圧倒的に戦況が不利に展開しているにもかかわらず、劣勢国が和平に応じないことです。その理由を説明する仮説として、ライター氏は「コミットメントの信ぴょう性は疑われるが、究極的な勝利の望みがあると、ネガティヴな情報(discouraging information)があっても、戦争終結にまつわる要求はより高くなる」と主張しています。この仮説は「損害受忍度」という変数を含んでいませんが、イギリスの1940年の決定をうまく説明できます。

 

要するに、チャーチル戦時内閣は、ヒトラーを信用していませんでしたが、経済封鎖と爆撃さらにはアメリカの支援により、ナチズムを打倒できると期待して、コストに耐えたのです。他方、チャーチル政権が民主主義を守るために、どんな犠牲にも耐える覚悟だったというのならば、アメリカの支援が期待できようができまいが、そうしただろうという反実仮想が成立しなければなりません。入手できる資料では、そういうのは難しいでしょう。

損害に弱い民主主義国の例外?
第2の問題は、戦争終結理論の論理的整合性です。同書では、民主主義国の損害受忍度は低いことがほのめかされています(同書、274ページ)。他方、民主主義国としてのイギリスが甚大な犠牲を払ってでも、「民主主義」を守ろうとして、実際に、バトル・オブ・ブリテンでドイツの爆撃の被害に耐え抜いたことは、矛盾しているのではないでしょうか。

 

民主主義国は損害受忍度が低いのであれば、イギリスがドイツに屈すると理論的には予測できてしまうのです。それとも、当時のイギリスは損害受忍度において、民主主義国の中で例外的に戦争による損害に耐えられる政治体制だったということでしょうか。民主主義という変数を暗黙に戦争終結の理論に組み込んでしまうと、そのロジックの内的一貫性を損ないかねません。もちろん、このことは国内政治レベルの制度要因の理論化を否定しません。民主主義と損害受忍度の関係は、筋の通ったロジックとして理論化しなければならないということです。
 

アメリカからの支援という要因の軽視
第3に、経験的な疑問として、チャーチルをはじめとするイギリスの指導者は、ドイツとの戦争を続ける主要な理由を「民主主義」の擁護に見いだしていたのかということです。一般通念として、チャーチルはナチズムから自由と民主主義を救ったといわれます。歴史の後知恵をつかえば、そのような解釈はできます。

 

しかし、ここで実証すべき問いは、民主主義の価値がチャーチル戦時内閣にドイツとの和平交渉を思いとどまらせたのか、という因果推論の妥当性です。上記に引用したチャーチル発言の「生き残り」に、民主主義の維持が含意されていた可能性は排除できません。また、チャーチルがイギリスの民主主義を守るために、ヒトラーとの和平を拒んだ「決定的な証拠」をわたしは知らないだけかもしれません。ただ、上記の入手できる証拠は、経済封鎖と爆撃によるドイツ経済の弱体化ならびにアメリカからの支援が、チャーチルに対独戦でのかすかな勝利の期待を抱かせたことを示していると思います。

 

「チャーチルは民主主義を守るためにナチス・ドイツに犠牲をいとわず立ち向かった」という勧善懲悪のストーリーは、美しいものであり、人々に感動を与えることでしょう。しかし、それがどんなに心に響く力があっても、社会科学の研究者は、それがフィクションであるのか、現実であるのかを厳しく見定めなければなりません。劣勢だったチャーチル政権がヒトラーに抵抗して国家を守ったことは称賛に値しますが、これを世界最強国であるアメリカが背後で支援していた事実は重いでしょう。要するに、イギリスのドイツに対する戦争は、バランス・オブ・パワー抜きでは、その全容を語ることはできないということです。