日本の「国際政治学(国際関係論)」を構成するアプローチとして、「歴史研究」や「地域研究」(中国研究、アメリカ研究、中東研究など)があります。これらの研究者は、実証政治学とりわけ合理的選択アプローチには総じて批判的です。わたし自身も、政治学の過度な科学化(数理化)には賛成できませんが、政治学の専門分野としての「国際政治学」は、やはり合理主義にもとづく理論アプローチが不可欠だと信じています。ですので、しばしば沸き起こる実証政治学への反論は気になります。
「政治科学(Political Science: PS)」への不満
わたしは大学院生のとき、ソ連研究の歴史学者リチャード・パイプス氏が、ソ連の崩壊を予測できなかった政治学を以下のように否定したのを読みました。
「ソビエトの崩壊は…政治学のあり方そのものに打撃を与えた…(これを予測できなかった)大失敗の原因は、政治学者たちが…あたかも物理学者や生物学者であるかのようにふるまったことに求められる」(「なぜソビエトの崩壊を予見できなかったのか」『中央公論』1995年4月、407頁〔元記事はForeign Affairs, 1995〕)。
それから約15年後、今度は中国研究のある大家が、「中国研究」と社会科学について、次のように述べているのを目にしました。
「科学的分析とは予測能力を高めることにつながる。しかし、残念ながら社会科学は『科学』であるにもかかわらず『科学』でない部分が大きい。なぜなら人間やその集合体である社会の行動は非合理性に満ち溢れているからである。…中国の予測分析は…完全に外れた部分も多い」(国分良成編『中国は、いま』岩波書店、2011年、225ページ)。
最近でも、歴史系・地域研究系の人たちは「国際政治学がともすれば統計至上主義に傾きがち」と間接的に不満を述べています。ここで、わたしが不思議なのは、こうした「学者」は、自分の選んだサンプル(事例)がチェリーピッキング(選り好み)になっていないか、それが母集団(全体)を代表しているのか、などを統計ツールなくして、どうやって確認するのか、ということです。「素直に事態に取り組むならば、感覚が呼びさまされ」て正しい判断につながるということなのでしょうか(高坂正堯『外交感覚』中央公論社、1985年、v頁)。そう信じている人は、この記事の最後に紹介したジャーヴィス『国際政治における認知と誤認知』をぜひ読んで下さい。人間の心理バイアス(感覚)がいかに現実を歪めて誤認(失敗)につながるのか、豊富な事例で理解できます。
比較政治 vs. 地域研究
これらの上記の主張には、いろいろと興味深い問題が凝縮されています。スペースの制約により、ソ連崩壊と中国の予測分析に対する私の見解は、過去のブログで書いた記事のリンクを張りましたので、こちらをお読みください。
第1に、こうした批判は、どうやら実証政治学が自然科学と同じようなものであり、合理性にもとづく理論は説明も予測もできる「万能薬」であるとの前提に立つ一方で、政策決定者などの「人間性」をより重んじる人文学寄りのアプローチの相対的な優位性を訴えているように読めます。おそらく前者は合理性に対する誤解でしょう。後者については、政治分析にアートが重要な役割を果たすこと、合理的選択論にある種の病理があることは認めますが、比較政治学者のロバート・ベイツ氏(ハーバード大学)が言うように、「社会科学は特定の地域の文献ではなく特定の学問の文献に精通することを求めている…(ただし)理論は文脈に応じた知識により補完させなければならない」のではないでしょうか。
こうした学問的分業は、日本研究で有名な地域研究者チャルマーズ・ジョンソン氏から、「地域研究は合理的選択の下請けではない。これまで立派な理論を数多く生み出してきたのだ」と猛烈に反論されました。その彼の主要業績である、日本の高度経済成長における通産省の役割を重視した「発展志向型国家モデル」は、その外的妥当性がどの程度なのか、先行条件は何なのか、つまり、日本以外の国家をどのくらい広く説明できるのか、よくわからないばかりでなく、市場のダイナミズムや企業の自主性などを軽視しており、その後の日本経済の低迷も説明できないでしょう。標準的な社会科学の基準からすれば、説明する対象が限定されていることもあり、特別に優れたモデル(理論)とはいえません。
「非合理性」の勘違い
第2に、社会科学における合理性についてです。これまで社会科学の多くの分野が依拠してきた「合理性」概念には、確かに疑問が生じています。たとえば、戦争原因研究の分野では、ジェームズ・フィアロン氏(スタンフォード大学)の画期的な研究(James D. Fearon, "Rationalist Explanations for War," International Organization, Vol. 49, No. 3, June 1995)以来、戦争は国家が合理的であれば起こらないはずなのに、なぜ起こるのか、という疑問(パズル)から、国家の「合理性」から逸脱する行動に戦争の原因を求めるアプローチが、盛んになってきました。経済学の分野でも、合理的選択理論から距離をとり、心理学から経済現象に迫る「行動経済学」が興隆しています。国際政治学の分野でも、同じく「行動国際関係論」が台頭しています。その背景には、河野勝氏(早稲田大学)が指摘するように、社会科学の多くの分野が「母体とした合理的選択がさまざまな方面で行き詰まった」ことがあります(河野勝・西條辰義編『社会科学の実験アプローチ』勁草書房、2007年、7ページ)。

ただし、ここで注意しなければならないことは、これらの研究アプローチは、科学としての社会科学を否定しているわけでもなければ、合理的アプローチを葬り去ろうとしているわけでもないということです。説明することが難しい問題すなわち「パズル」への接近ルートが変わってきたということです。たとえば、戦争はなぜ起こるのかというパズルについて言えば、合理的国家は、コストのかかる戦争をしないで、弱い方が強い方に、パワーの格差分の妥協をすれば、平和的解決に行き着くはずです。にもかかわらず、戦争が起こるということは、合理的な平和的解決を阻害する要因が、国家の政策決定に働いているからだ、ということになるでしょう。
要するに、国家の合理的行動を妨げる要因は何か、その候補となる要因は、どのように国家の合理的意思決定を歪めるのか、といった研究課題を科学的な手続きにしたがい解いていくということです。その際、「想像力」や「発想」力、「着想」力は、仮説を導出する初期の段階で重要な役割を果たします。しかし、それは、社会科学の一連の気の遠くなるような研究プロセスを構成する、はじめの方の作業であり、全体のほんの一部分にしか過ぎません。
くわえて、非合理的に見える行動は、確かに「最適(optimal)」行動ではないのでしょうが、それは単に「最適以下(suboptimal)」の行動にすぎないかもしれません。さまざまな理由により、国家が最適行動をとれなくても、不思議ではありません。そうだとすれば、合理的理論を破棄するには時期尚早です。チャールズ・グレーザー氏(ジョージ・ワシントン大学)がいうように、「理論と国家行動がガッチリと合わなくても、それは、合理的理論の欠陥のせいではなく、(国家の)最適以下の決定を反映しているのかもしれません」(Charles L. Glaser, Rational Theory of International Politics, Princeton University Press, 2010, p. 19)。
科学は間違うもの
第3に、社会科学における「科学」とは何か、ということです。この点は、ある程度、ハッキリさせたほうがよいでしょう。社会科学の方法を解説した、最も信頼のおける学術書として、Gary King, Robert O. Keohane, Sidney Verba, Designing Social Inquiry: Scientific Inference in Qualitative Research, Princeton: Princeton University Press, 1994. (邦訳『社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論』勁草書房、2004年) がありますので(略称KKV)、同書の定義を以下に引用します(原著、7-9ページ・邦訳、6-9ページ)。
1.目的は推論である。事実を集積しただけでは不十分である。科学研究の特徴は、事実を超えた推論を行う目的にある。
2.手続きが公開されている。これにより研究プロジェクト成果は追試され、研究者は学ぶことができる。
3.結論は不確実である。推論とは、不完全な過程である。
4.科学とは方法である。科学的研究とは、一連の推論のルールを厳守した研究である。
つまり、社会科学は、推論を目的としており、しかも推論には不確実性を伴うということなのです。このことは、以下の警告につながっていきます。
「研究者あるいは研究チームは、知識にも洞察にも限界があるなかで努力しており、間違いは避けられない。しかし、間違いは他の研究者によって指摘される。科学は社会的なものであることを理解すれば、批判されないような研究をしなければならないという拘束から研究者は解放される…批判されることのないような研究をする必要はない」(原著、9ページ・邦訳、9ページ)。
個人の意見(解釈)と科学の違い
ですから、「予測」が外れたとしても、科学の手続きを厳守している限り、それは決して恥ずべきことではないということでしょう。ただし、ここで大切なことは、適切な推論の手続きを行っているかどうか、です。このことについて、再度、KKVから引用します。
「仮説は着想のなかから生まれることを認めないとすれば…それは馬鹿げている。しかし、ひとたび仮説が立てられたら、その仮説の正しさを検証するためには、適切な科学的推論が必要である。…厳密さを欠いた解釈によって得られた結論は、未検証の仮説の状態を超えることはないし、そのような解釈は科学的推論というよりは個人的解釈にすぎなくなってしまう」(原著、38ページ・邦訳、46ページ、下線強調は引用者)。

このことは、社会科学における「科学」とそうでないものを分ける、1つの重要なメルクマール(目印)ではないでしょうか。「わたしは『◯◯学者』として時事問題をメディアなどでいち早く解説するが、それが間違っているかどうか検証(批判)されるのは不当である」というのは、単なる「個人的解釈」に過ぎず、社会科学のイロハを無視している態度と言わざるを得ません。「ある人物が誰かをすぐ理解したつもりになるのはその誰かが(自分の)予想通りの動きをした場合」なのです(ジャーヴィス、233頁)。「ほら、やっぱり、私が思った通りになった」と。そして、このことは自分の信念が仮に間違っていても強化されてしまう結果、それに反する情報は歪められて解釈されるか、無視されるます。これでは予測力も分析力も向上しません。
これが予測の失敗を招く最大の1つのメカニズムなのです。こうした罠に嵌らないようにするために有効なのは、事前信念・知識(主観的確率)を新しい情報で更新する、よき「ベイズ主義者」になることでしょう。
