令和5年10月12日(木)


市民に愛されている別所沼公園が、Park-PFI(パーク・ピーエフアイ)の対象になっているとの噂を聞いて、あらためて現地を見てきました。


民間活力を導入するのは結構ですが、多くの浦和画家も付近にアトリエを構えた歴史のある公園をカモにされてはいけません。


実際に鴨は住んでいますが…。


私も子供の頃から遊んだ思い出深い公園です。


【主要施設】
広場・公園遊具・児童広場・ジョギングコース・噴水
【ヒヤシンスハウス】
【慰霊碑】
【彫刻・掛けた女】
【風の神の像(メキシコ・トルーカ市姉妹都市記念)】
【弁天島(別所沼弁財天)】
【鈴木幸輔・歌碑】


【立原道造と別所沼畔のヒアシンスハウス】
詩人立原道造(たちはら‐みちぞう)は、1937(昭和12)年冬から翌年春にかけて、当時、葦がおい繁り静寂をきわめた別所沼の畔に、自らのために小さな週末住宅を建てようとしていた。
昭和初期、浦和市郊外の別所沼周辺には多くの画家が住み、「鎌倉文士に浦和画家」とも呼ばれ、一種の芸術家村の様相をみせていたという。
当時この地には、立原の年長の友人で詩人の神保光太郎、画家の須田剋太、里見明正らが住んでいた。また、立原と親交の深かった東大建築学科の同級生小場晴夫は旧制浦和高校の出身でもあった。
これらのことから、《芸術家コロニイ》を構想した立原は、自ら住まう週末住宅の敷地として別所沼畔を選んだのであろう。
立原は、この五坪ほどの住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼んだ。
立原は、詩誌『四季』を主な舞台として、青春の憧れと悲哀を音楽性豊かな口語で謳いあげ、わずか24歳8か月でその短い生涯を閉じた。ヒヤシンスハウス建築の夢は叶わなかったのである。
立原が、「別所沼のほとりに建つ風信子ハウス」を構想してから66年の時が過ぎた2003(平成15)年、別所沼公園が、さいたま市の政令指定都市移行に伴い、埼玉県からさいたま市に移管された。これを機に、別所沼周辺の芸術家たちの交友の証として、立原がかつて夢みた《ヒアシンスハウス》は、「詩人の夢の継承事業」として建設の機運が高まり、2004(平成16)年11月、多くの市民たちや企業、行政の協調のもと、ここに実現することとなった。(HPより)
































さいたま市議会議員

帆足和之(ほあしかずゆき)


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