17日の日曜日。

カズシットは、和歌山城郭調査研究会の一員として、紀美野町にある平岩城跡に行って来ました。天気は良くなかったけど、城跡にいる間は、ほとんど降らなかったので、まだ良かったです。



途中までは道がありましたが、途中からは道がなくなり、山の斜面を上るという過酷なミッションになりましたが、みんな、カズシットよりも年上なのに、足腰は丈夫で、急斜面であろうが、余裕なんですよね。



日頃は愛すべきコケも、山城に行く際には、恐ろしいトラップになる。滑るんですよね。おまけに、倒木もあったりして、



なかなか、歩きにくいエリアでしたね。息を切らしながら上がっていく。所持していた登山用の杖が、折れてしまいました。



折れた杖↑です😂 初使用なのに。まあ、使い慣れていないので、力の入れ方を誤ったんだろうな。


山の斜面を歩いていると、堀切が現れました。



写真では分かりにくいけど、この斜面は、人口によるものです。戦国時代は、もっと急だったと考えられますね。ちなみに、生えている木々は、後の植林によるものです。まあ、木があるおかげで、上がれたんですけどね🤣



平らな場所に、城があったと考えられていますが、そんなに、綺麗な平地にはなっていません。ある程度、平地にしてから、すぐに築城した感じかな。全国にある観光名所となっている城とは違って、ただ、戦を想定して作られながらも、そんなに時間をかけている余裕もない状況だったんだろうね。


この平岩城跡で、印象的だったのは、ここが城だった事を意味する石列やね。並び方が、人の手によるものだと解りますよね。







戦国の世にあったもんが、こうして残っているのは、マジで感動的であります。これを、ここに並べた人が、遠い昔に、確かに、そこにいたんだからね。


和歌山城郭調査研究会のメンバー全員で、この場所↓に、のようなものがあったのではないか?という考察をしました。




ちょうど、地形的に、張り出し部になっていて、攻め上がって来る敵を攻撃するイメージが浮かびやすい場所でした。カズシットにも意見を求められましたが、あまり、明確な発言はしませんでした🤣 




まだまだ、知識ない人間なので(笑) でも、こーゆーのは、想像だから、自由に発言してもいいみたいですね(笑) 



上から見た堀切の写真↑ですが、ここからだと、段差がはっきりしません。堀切の写真は、真横から撮るのが一番ベストらしいです。なるほどね。


戦に備えられた平岩城ですけど、この城は、和歌山で暴れ回っていた雑賀衆の城ではないんです。楠木正成が築いた城という伝説もありますけど(笑)、平岩城は、高野山勢力の城でした。分かりやすく言うなら、坊さんの城ですね。戦国時代は、坊さんであろうが、農民であろうが、自分の身や、土地を守るために、武装せざるを得なかったんですね。平岩城は、守りのための城でした。敵となっていたのは、戦国時代のビッグネームである織田信長でした。実際、高野山では、呪詛により、信長を攻撃していたという。その辺りの歴史を理解した上で、平岩城跡を見てみると、こんな場所に、城を築く事になった理由とか、城の必要性などが、何となく見えて来ますよね。



↑鏡石?


対信長だけではなく、高野山領内における紛争の際にも、この城が使われた可能性はあるみたいです。僕的には、簡易な城をイメージしていたんですけど、しっかりと作り込んだ城だったという話もあるし、寺のような感じだったとする話もあります。こーゆーのは、実際に、発掘してみないと解らないそうです。いつか、機会あれば、発掘作業も見てみたいですね。



↑釜戸?


ただ、こーゆー城跡は、発掘しても、大したものが出ないから、積極的に、発掘しようぜ!という流れにはなりにくいとか。我々は和歌山城郭調査研究会という集団だけど、その専門職ではないので、勝手に発掘まではしてはいけないそうです。残念。


だけどね、結論を急がずとも、色々と想像するのは楽しいし、これこそが、史跡巡りの楽しみなんだよね。張り出し部に立った時に、吹きつけて来た、強くも弱くもない風。この同じ風を、当時の人も感じていたんだろうか。そんな事を考えてみると、自分が、戦国時代に近づけたような、そんな気がするんです。



帰りは雨降っていましたけど、貴重な見学会でございました。やっぱ、城跡はいいですね。ワクワクします。