13日、久々の城郭調査研究会の見学会でした。場所は、平井城でした。



めっちゃ、真面目なルックスで参加しました。ちょっと賢そうに見えるでしょ? その正体は、これ↓ですけど🤣



もっと言えば、その日の夜には、こんな奴ら↓と、こんな場所↓で、こう↓なっていましたが、



それでも、見学会に参加している僕は、大学生に見えるくらいに、賢そうなルックスをしていたはずです。


さてさて、待ち合わせ場所のJAの駐車場に着いたら、既にメンバーが何人か来ておりました。真面目なルックスをしているとは言っても、革ジャンの僕は、やはり、注目されちゃいます🤣 けど、笑顔で挨拶しておきました。バッチリぢゃん。和歌山城清掃ボランティアみたいに、未だに周囲に溶け込めないのは、最初にしくじったんですよ。やっぱ、怖いとか、話しかけにくいとか、そーゆーマイナスなイメージは、最初は遠ざけた方がいいんです。


見学会参加者は11人。

まずは、カズシットも以前行った事のある、和歌山市平井歴史資料室へ。しばし、見学。



↑普通に、これ、欲しいわ🤣



↑重いかな?と思ったら、めっちゃ軽かったヤツ🤣



↑メンバーの中で議論となった信長の紀州攻めのルート。



↑平井城を復元した模型。これも、メンバーは、誤りとしている。


展示物を前に、こうではない、ああでもないと、多分、こうだろう、いや、そっちだろうと、意見が飛び交う。平井城を復元した模型については、城郭の研究をしている上で、あれはないと言う。これは、色々と、面白い話を聞けそうだ。僕が以前、ここに来た時は、模型の写真を撮り、それを参考にして、現地に向かったもんだ。だが、メンバー達は、あれを誤りという。ワクワクして来た❤️


平井城跡を示す、この案内板。



ここは、古池と呼ばれていて、当然、池があった場所。わざわざ、池を埋め立てて、城を築くのは考えにくいとの事。まだ、あの山↓の方が、城がありそうだと、メンバー達は言う。



だけど、実際、山には入ってみたけど、城らしき痕跡は見つからなかったと言っていた。僕は、案内板などが、必ずしも、真実ではない事を、この日、知りましたね。歴史探訪において、案内板というのは一つの目標だったりします。平井城跡のように、遺構のない史跡の場合、それを示す案内板の存在は、重要。けど、必ずしも、それが、正しい場所に建っているとは限らない。城郭調査研究会メンバーは、それを重視しない。あくまでも、観光客向けの案内板としている。


平井城跡で、カズシットが、ずっと場所が分からずにいた、政所の坪ですけど、この日、その正確な場所を初めて知った。



この真下に広がる風景の中に、それがある事は前から分かっていたんですが、正確な場所を突き止められなかったんですよね。あんまし、一人でうろついていると、不審者と判断されてしまうのもあって、念入りに確認する事も出来なかったんですよね。けど、見学会ですから、今回は堂々としていられる。それが強かったね。



政所の坪は、この↑写真の四角い家の付近だという。早速、その場所に行く事となった。何度も来ている平井城跡にて、僕にとっては、進展である。



不審者になる事を恐れ、踏み入った事のない道を進むと、素人ながらも、その地形で、想像力は膨らむものです。そして、到着したのが、雑賀孫一が居住したとされる政所の坪でした。




雑賀孫一が、実際にこの場所にいたんですよね。そう考えると、熱くなりますね。しかしね、雑賀孫一というのは、確かに、織田信長と戦った英雄ではありましたが、そこまで、でかい勢力を持った武将でもなかったと。今で言えば、自治会長クラスみたいな感じ。和歌山を代表するような武将ではなかったそうです。雑賀衆は一つの勢力ではなく、織田信長との戦いにおいても、織田信長に味方した雑賀衆もいたし、中立を保った雑賀衆もいたそうだ。本願寺と信長が和睦すると、雑賀孫一は、織田信長側となり、織田信長を後ろ盾とした。しかしながら、信長が本能寺で死ぬと、同じ雑賀衆で、足利義昭を支持していた土橋氏に攻められて、雑賀孫一は和歌山から逃亡している。以降は、羽柴秀吉に仕えたそうだ。まあまあ、カッコ悪い姿も晒している。


蓮乗寺には、雑賀孫一の墓と伝わる墓がある。今回の見学会には、蓮乗寺の住職さんも同行されていて、ラストに立ち寄らせてもらえた。




雑賀孫一の墓も、撮影許可を頂けた。

この墓は、江戸時代に建て替えられたものであるが、雑賀孫一の墓である事は間違いないようだ。



横から見ると、




雑賀の文字と、平井孫市という名前が見られる。これには、感激したね。ただ、雑賀孫一については、一人の個人というワケではなく、何人かが、その名前を名乗っていたのではないかとされている。簡単に言えば、織田信長と戦った雑賀孫一と、関ヶ原で活躍した雑賀孫一は、別人であるという事。あの服部半蔵のように、代々の雑賀衆の頭が、雑賀孫一を名乗っていたと思われる。だから、この墓の雑賀孫一も、その何人かいる雑賀孫一の中の一人なんだろう。墓は、天正17年、1589年に建てられている事から、この雑賀孫一は、関ヶ原の戦い以前に亡くなっている事が解る。


また、蓮乗寺には、雑賀孫一が戦の際に持っていたとされる守り本尊も存在する。今回、許可を頂き、撮影させてもらったが、この写真は、さすがに、アップするのはやめときますね。


いい見学会でございました。

城郭調査研究会の土井さんや、白石さんには、色々と、教えてもらいました。現地に行ったり、資料を読んだりして、自分で色々と考察していく事で、史実に近づけるという事を学びましたね。こんなアホなカズシットですけど、これからも、よろしくお願いします。



この夜には、ヴィンテージのライブで、暴れまくっておりましたが🤣 次の見学会は、3月17日。平岩城らしいです。参加出来たら参加したいですね。