ところで、皆さん。

この画像ですが、歴史の教科書では、よく見ますよね。今の教科書は、どうか知らないけど(笑)



この中央の人物が、聖徳太子である!と教わりましたね。実際、昔は、お札にもなっています。聖徳太子としてね。


しかし、この肖像画は、聖徳太子ではないとゆー声もあります。現在の都市伝説ではありません。これ、平安時代から言われているそうです。まあ、残されている肖像画が、その人物を描いていなかったというのは、よくある。僕が学生時代にも、途中から、これは違うとなった肖像画もある。足利尊氏だ。



小学時代までは、これ↑は、足利尊氏だったんだけど、中学時代には、これは、足利尊氏の部下の高師直とされるようになった。今は、どうなったのかは、解らないけど。だから、足利尊氏の時代よりも、さらに昔になる聖徳太子の肖像画が正しく伝わっていないとしても、仕方ない。


しかも、聖徳太子なんていないとゆー話さえある。まあ、超人的な話が多いからなあ。十人の人間が一斉に話し出して、それを全て聞いて、それぞれに返事する事など可能なんだろうか?とガキの頃、マジで思った事がある。それほど、聖徳太子が賢い人物であるという事なんだろうな。


けど、そんな聖徳太子も、手は汚していますね。あまり、歴史の授業では、詳しく習わないけどね。カズシットも、かつて、そんな史跡を見に行きました。



聖徳太子の戦というよりは、蘇我馬子と、物部守屋の争いで、聖徳太子が、蘇我馬子側についたという話なんだけどね。この辺、歴史に興味ない人からすれば、意味不明になっちゃうんだけど、強行するぜ😁 それは、587年の事。日本に仏教が伝わった時の話。物部守屋は、日本には古くから神様がおられるのに、外国からの仏教など必要ない!という考え方だった。日本に仏教を取り入れ、外国の優れた文化や技術を取り入れたいと考える蘇我馬子とは対立状態にあった。



↑物部守屋。


そして、戦になるんだが、当初は、物部軍が優勢だったようだ。物部守屋は、朴木に登り、そこから、蘇我軍に向けて、矢の雨を降らせたそうだ。聖徳太子は、この時、蘇我軍におり、いきなり、四天王の木像を作り、この戦いに勝ったら、四天王像を安置する寺院を建てて、日本に仏教を広める!と誓ったんですね。戦の最中に、こんな事が出来る人間ゆえに、偉人となったのかもな。当時、聖徳太子は16歳。16歳といえば、カズシットは不登校を繰り返すダメダメなヤツでした(笑)



↑16歳の聖徳太子と、四天王像。


仏への祈りが通じたのか、物部守屋は、迹見赤檮とゆー聖徳太子の配下に、射殺されて、物部軍は壊滅し、蘇我馬子が勝利したんですね。これ、物部守屋が勝っていたら、源在日本も、また違った姿になっていたかも知れないな。つまり、歴史における分岐点だったと言えますよ。


物部守屋の首を洗ったという守屋首洗池も見て来ました。池なのに、水はなかった。



つーか、ペットボトルとか、こんな所によく捨てるよな。歴史を知らない人間は、ある意味、怖いもの知らずよな。褒めているんぢゃねーよ。呆れてんだよ。祟られて死ね❤️


だけど、聖徳太子のように賢人偉人とされている人物でも、戦争に加担してるのは意外だよな。まあ、時代も、時代やからなあ。十七条の憲法と、冠位十二階と、遣隋使は、聖徳太子のやった事として学校でも習ったと思うけど、戦争のイメージからは遠い人物ですよね。ただ、聖徳太子が起こした戦争ではないけどね。


そして、聖徳太子に程遠いカズシット。けど、僕は人を殺していないから、聖徳太子以上かも知れねーな。



なんて事を言ってみる(笑)


あ、今回のブログに出て来た史跡は、大阪八尾市にありますからね。興味を持った方は、是非、訪れてみてください。ただし、守屋首洗池は、一応、討ち取られた物部守屋の首が洗われた池なんで、自己責任でよろしくね(笑) 間違えても、ペットボトルなんか捨てないようにね。つーか、神社とか寺にそんなもんを捨てるか? 理解に苦しむぜ。