紀州藩主の中で、最も和歌山に爪痕を残したのは、第十代藩主の徳川治宝ですね。和歌山県民の大多数が知っている、この不老橋も、
治宝の命令で架けられています。というか、不老橋よりも、和歌山のメインとして有名な、あの和歌山城にも、治宝は深く関わっています。築城したのは、羽柴秀長ですが、元々は、黒かった天守閣を白くしたのは、治宝のアイデアでした。
天守閣を白くした後、その天守閣が、落雷で、焼失してしまうんですよね。一度、焼失した天守閣の再建とか、当時はなかなか出来なかったそうですが、和歌山城は、その、治宝案の白い天守閣を再建してます。それを見届けるようにして、治宝は亡くなっています。
↑徳川治宝です。
徳川治宝が残したもので、最も有名なのが、養翠園という庭園です。元々は、山本理左衛門の下屋敷だったそうですが、治宝の命令で、庭園として造営されました。めっちゃ広い庭園ですよ。去年の春にも行って来ました。
養翠園という名称は、公家の三条公修によって命名されたものです。明治政府の三条実美の祖父に当たる人物ですね。そして、養翠園は、1818年より、8年かけて、造営されました。
治宝の隠居場所であった西浜御殿からの清遊の場とされ、外来者の接待の場としても使われました。
治宝は、武士ではあるものの、剣術が強かった!とか、そんな話よりも、文化人としての色が強い人ですよね。茶道や音楽を愛していたといいますからね。
しかしながら、藩主としての仕事も、ちゃんと行っています。治宝は、中級武士や、下級武士を積極的に抜擢し、藩政改革を試みた事でも知られています。
学問好きだった治宝は、紀州藩士の子弟の教育を義務化し、和歌山城下には、学習館・医学館を、当時、紀州領だった三重の松坂城下には、学問所を、江戸赤坂紀州藩邸には、明教館を開設した。本居宣長を招いて、講義を開かせた事もあったそうです。
↑2017年の撮影。
ただ、名君だったのか?と言えば、どうでしょうね。実は、治宝が藩主だった時期に、大規模な農民一揆が起こっちゃうんですよね。この一揆はね、こぶち騒動と呼ばれている。水争いから始まった一揆なんだよね。村々を巻き込んで、藩政史上最大の一揆となってしまったんです。村役人や金持ち商人などの家が襲われた。年貢の引き下げなど七か条の要求を藩に認めさせたこの一揆は、カズシット、小学生の時に習いました。叛逆、反乱が大好きな僕は、すごく熱くなりました。今でも覚えてるくらいにね。その時の藩主が、徳川治宝だったのは、当時は知らなかったけどね。
こぶち騒動の責任を取る形で、治宝は、藩主の座から退きます。しかしね、この治宝という男、そこで、歴史から姿を消したワケではありません。彼は、藩主を次の代に譲った後も、権力を持ったままだったんです。11代藩主の徳川斉順、12代藩主の徳川斉彊、そして、13代藩主にして、後に14代将軍にもなる徳川慶福の3代に渡って、治宝は、裏ボスとして君臨したワケです。
西浜御殿から船でやって来た治宝は、ここ↑から、養翠園に入ったそうです。正門から入らずに、わざわざ、船でやって来るところに、治宝らしさを感じてしまいますね。退屈な人物ではなかったと思いますよ。
しかし、裏ボスというポジションは、幕府からすれば、あまり、好ましくなかったんでしょうね。徳川治宝は、御三家の中で、唯一、生前に、従一位の位についているんです。それは、長く権力の座に居座り続ける治宝を喜ばせて、次の11代藩主の斉順にさっさと権力を握らせようとする幕府の狙いがあったと云われていますね。まあ、それでも、権力を手放さなかったんですけどね(笑)
養翠園には、港御殿の一部が移築されております。ここは、撮影は禁止なので。
元々は二代藩主、徳川光貞により造営された藩主別邸ですが、何度も火災で焼失しました。呪われてたのか(笑) 治宝のせいで、何となく、影が薄い11代藩主の斉順が再建した港御殿の一部が、現在、ここに残されているんです。ちなみに、治宝が、君臨した西浜御殿は、治宝が亡くなってから、ブッ壊されたそうです。裏ボスの治宝のせいで、藩主重臣と、裏ボスの配下との間で政争が絶えなかったとか。裏ボスの側近たちは、裏ボス亡き後、追放されたりして、粛清されてます。まあまあ、嫌われていたかも知れませんね、治宝さん(笑) 西浜御殿のあった場所には、現在、和歌山工業高校があります。
うーん、引き際は大事ですね。
治宝は、ちょっと権力に執着し過ぎたんでしょうね。でもね、和歌山県民なら、徳川治宝の名前は知っておいてくださいね。僕は、彼は名君だと思ってますよ。色んなことに興味を持った楽しい殿様だったんだろうな。














