皆さんは冬でも、外でバーベキューなんかしますか? 僕は弟と、それ、よくやるんです。
ガキの頃から、こーゆーライフスタイルに憧れていましたからね。両親は、色んな所には連れて行ってくれましたが、外で、バーベキューとかは、あまりしなかったんで。
でも、真冬となれば、寒いので、
こんなのを羽織ったりします。
こーゆー時は、デザインとか気にしないです。防寒対策なんで。イメチェンとか、ギャップ狙いとか、そーゆー意図は一切ございませんので。
そして、そんな寒いバーベキューの時に、リベンジの炎🔥を燃え上がらせるワケです。俺らが、年取って、動けなくなる前に、絶対、雲海見ようぜ!と。
そう、竹田城の、あの有名な雲海ですよ。あれを見るには、色んな条件がうまく重ならないとダメなようで、プロの写真家なんかは、その条件が重なり、雲海が見れる時まで、ひたすら、滞在し続けて待つそうです。が、そんな事、勤めている身では無理です。雲海見るんで、しばらく休ませてくださいなんて言ったら、まず、退職されてから、ごゆっくり見に行ってください♡と返されるだろう。日本というのは、そーゆー国なんです。
だから、雲海が現れるには、マジで、運を天に任せるしかありませんでした。あの日は、姫路の有名な駅そばからの出発でした。
天気は見事に雨☔️という状況。普段なら、クソッタレ‼️なんでしょうが、翌日に、竹田城の雲海を見に行く予定だったので、朝に雨が上がれば、雲海が現れる可能性大って事だから、テンション上がってました。
姫路名物のチーかまドッグを食し、
雨の中、日本一美しい城と称される姫路城を見に行き(姫路城については、また、いつか、ブログを書きます😀)、
姪っ子のお土産を買うために、キャラ違いな店に行き、
そして、酒盛りをして、ホテルに向かったワケですが、
翌朝の天気は、運よく雨上がりという展開。これは、絶対に、雲海見れるなあ。もう、勝った気でいましたよ。雲海見物は、まさに、時間との勝負だから、メチャクチャ早起きして、行動開始。
竹田城最寄りの駅で、タクシーをゲットし、二千円払って、雲海が見えるポイントまで乗せてもらいました。
・・・ですが、ダメでした😂
見よ、この悲しき後ろ姿を。
雲海にまで育たなかったのです。こーゆーパターンは、よくあるらしい。本当に、なかなか、見られないものなんです。
まあ、雲海見ようと頑張ったんで、ヨシとしましょう😂 結果よりも大切な事はありますからね。
しかし、山の中で、タクシーとバイバイしたので、そこから歩いて、山を下りなければならないというミッションが発生しました。時期は秋深い季節です。冬眠を必要とする動物は、その準備に忙しい時期です。食べ物を求めて、人里に現れる事もあります。その動物とは、言うまでもなく、こいつです。
まあ、この熊は、和歌山城の動物園の人気者なので、怖いヤツではないんだけど、それでも、こんなのに、山の中で遭遇したら、恐怖でしかないワケですよ。警戒する僕に、同行していた弟が、兄貴、心配し過ぎやぜ!と言うも、ヤツのスマホは、ずっと音楽が流れておりましたね。そう、熊対策ね(爆笑)
何とか、道の駅まで辿り着きましたね。めっちゃ歩きましたよ。
ここで、朝食でした。たこ焼きです。まあ、何というか、戦場から無事に帰還した兵士のような気持ちでしたね。
確かに、雲海は見れなかったけど、竹田城って、雲海が全てぢゃないんです。史跡好きなカズシットは、実際に、城跡に行きたいと思いました。そう、城攻め❤️です。
が、これも、なかなか、過酷でした。
既に、超ハードというメッセージが、僕の心をへし折ろうとしていますよね(笑)
けど、行くしかないでしょ。
観光客もたくさんいたので、心強かったですね。人間が大勢いると、野生動物は姿を現さないからね。つーか、どこまで、熊を警戒してんだ?って話ですけど、あの当時、熊に襲われたって事件が多発しておりまして、元々、野生動物が苦手だった僕は、さらに、ビビっていたんです((((;゚Д゚))))
ようやく辿り着いた竹田城跡は、マジで素晴らしいものでした。
人は、この城を天空の城と呼んでいますけど、実際は、この竹田城に、どのような歴史があるのか、知らないのではないだろうか。竹田城は、元々は、太田垣氏の居城だった。初代城主は太田垣美光景とされている。1577年に、羽柴秀長が、織田信長の命で、太田垣輝延を倒して、竹田城の城主となるも、明智光秀の応援として、竹田城から丹波に攻め入っている間に、再び、太田垣輝延が、竹田城に入った。1580年、またも、信長の命で、羽柴秀長は、但馬攻めを開始し、竹田城は降伏したそうだ。
太田垣輝延は、播磨に落ち延びて、息子の代からは、太田垣姓を隠し、白岩と名乗って、生き延びたそうだ。竹田城には、羽柴秀長の配下である桑山重晴が城主として入った。桑山重晴は、この竹田城の後に、和歌山城にもやって来る。不思議な縁を感じますね。
関ヶ原の戦いでは、城主は、赤松広秀だった。広秀の時代に、現在の竹田城は完成される。豊臣秀吉の配下となった広秀は、関ヶ原の戦いでは、石田三成に味方し、西軍に属していた。細川幽斎の居城、丹後田辺城を包囲していたが、西軍敗戦となると、すぐに、東軍に加わり、鳥取城攻めに参加し、楽城させる。しかしながら、徳川家康に、城下を焼き討ちし、民家に火をつけたのを咎められ、切腹させられる。まあ、最初から、切腹させる口実探していたように思えるけどな。一回は西軍についてるヤツやから、殺してやろうと。その辺は、戦国時代によくある事なので😭 ただ、この赤松広秀は、良き領主で、養蚕や、漆器業などを奨励し、領民から慕われていたそうだ。朝鮮出兵の際に、捕虜となった姜沆と交わり、日本の将官は盗賊であるが、赤松広秀だけは人間らしい心を持っていると、姜沆は、広秀の人柄について書き残している。
赤松広秀の後、竹田城は、山名豊国が入城するが、江戸幕府の方針により、廃城となった。最初に築城を命じたのが、山名宗全で、ラストに城に入ったのが、その一族の山名豊国だったというのも面白いよね。
こんなところに、城を築かれたら、攻める方は大変だろうな😂と思ったが、羽柴秀長に、まあまあ、簡単に落とされてるんだよね。そんなに、守りに適した城でもなかったのね。
上杉謙信を主人公とした映画である『天と地と』では、三億円かけて、この場所に、天守閣などが建設され、春日山城として、撮影に使用された。まあ、雰囲気は、めっちゃ合ってるもんね。他の映画でも、原城や、小田原城として使われたみたいです。
かつて、敵対関係であった山名氏と、赤松氏は、それぞれの子孫が、和睦を結び、駐車場の一角に、山名赤松両軍慰霊塔が建てられている。発案したのは、山名氏の菩提寺の法雲寺の住職さんと、全国山名氏一族会の理事長の太田垣泰明氏でした。ん? 太田垣? そうです。羽柴秀長に倒されるまで、竹田城を居城としていた太田垣氏の子孫の方でしょうね。
城跡から下山し、秋の空気を吸い込みました。風はひんやりとしてましたね。
落ち葉を踏みながら歩く。
僕は、日本のこういう風景が大好きですね。それは、きっと、自分も日本人だからでしょうね。
漢たちの歴史の舞台となった竹田城は、今は、天空の城とか呼ばれて、その見た目の美しさだけが注目されている。だけど、ここに感じる事が出来る、戦国の漢たちの息遣い。忘れてはならない。
今度は、絶対に雲海見ようぜ!と、弟と誓い合う。体が動くうちに行かないとな。うーん、でも、雲海を待つまで、帰れないから、定年退職してからだろうな(笑)



































