このブログの読者の皆さんは、和歌山の人ばかりではないですよね。寧ろ、和歌山の方は少ないと思います。今のこのブログを宣伝したり、広めたりしていないので、地元の仲間たちは、カズシット、コロナ感染してから、前のブログを消してしまい、そのまま、ブログも書かなくなってしまったと思っているでしょうね。それでいいんです。たまたま、見つけた人は密かに楽しんでくださいね。よろしくお願いします。
そして、今日は和歌山にある城について書こうと思っているんですけど、和歌山の城って、みんな、和歌山城くらいしか思い浮かばないでしょう?
確かに、和歌山において、和歌山城は、代表的な城です。経緯としては、豊臣秀吉の紀州平定後に、秀吉の弟の秀長によって築城され、その後、徳川頼宣が入って、紀州徳川家の城として幕末まで続くワケですけど、和歌山には、和歌山城以外にも、たくさんの城があるんですよ。今日のブログでは、知る人しか知らない、和歌山の城を、たくさん、紹介するんで、ゆっくり読んでくださいね。
まあ、和歌山を代表する城なので、和歌山城から紹介しましょうか。
天守閣は、戦後の再建とは言っても、徳川治宝の頃の天守閣を忠実に再現しているので、決して、想像で建てられたものではない。
石垣は、言うまでもなく、当時のまま。
転用石なども見られる事から、この城は、戦を想定して築城されています。まあ、あまり、和歌山城について書き過ぎたら、それで終わってしまうので、今回の和歌山城の出番はこれくらいに。最後に、紅葉の紅葉溪庭園の写真でも貼っておきましょう。
コロナ禍以前はたくさんの外国人で賑わった場所です。確かに、日本らしい雰囲気のあるエリアですからね。東京ディズニーランドよりも魅力的だったと思いますよ。
では、そろそろ、マニアックモードに入るとしますか。まずは、園部城です。
平安末期に、園部重茂が築城した城。園部氏は源平の戦の際,平家から源氏に寝返って、戦国時代まで続いた武士集団です。今も残る一楽寺は、園部国康が、園部城の一角に創建し、園部氏の菩提寺となったそうです。園部氏は、浅野時代に、紀州一揆に加わり、鎮圧されている。
続いて、紹介するのは、前にもブログで書いたけど、太田左近の城、太田城です。
豊臣秀吉の三大水攻めの舞台になった場所。少人数で、めっちゃ数を集めた秀吉に立ち向かった和歌山の勇者、太田左近であったが、多勢に無勢という致命的状況の上に、水攻め。最後は切腹して果てた。
太田左近と、その配下たちの首は、三箇所に埋葬されたが、そのうちの一つが、小山塚です。太田城の本丸は、現在は、来迎寺となっています。
太田城の支城である秋月城も、また、豊臣秀吉の紀州征伐により、太田城と共に落とされた城ですが、
無かった事にされています😂
前は、わずかに形跡があったんですけどね。家とかたくさん建っちゃうエリアになるんだろうけど、住んでいる人たちは、多分、ここが城だった事も知らないんだろうね。ちょっと怖いよなあ。
ちょっとここからは、本当に城?って思っちゃうものも多数あるので、和歌山の人は、知っておくと、話のネタになるかも知れませんよ。ここなんて、毎朝、利用している人も絶対いますしね。
はい、紀和駅です。
ここも城だった場所です。中津城です。織田信長の紀州征伐の際に、築城されたそうです。雑賀衆の城の一つで、雑賀権太夫という人物が改修者とされていますが、はっきりとはしません。秋月城同様、無かった事にされていますね😂 こちらも、豊臣秀吉の紀州攻めの時に落とされています。
雑賀衆は、ゲームで有名になりましたよね。実は祖父の姓が、雑賀なので、僕も、一応、雑賀衆の子孫なんでしょう。ただ、雑賀衆については、伝説的な話ばかりが残されており、実際はどのような集団だったのか、まだまだ解明されていないんですね。まず、残っているものが少ない。
和歌山に平井という地があるんですけど、ここは、まさに、雑賀衆のエリアでした。
ただ、開発の中で、ほとんどが無かった事にされて来たワケです。だから、知っている人しか知らない。興味のある人しか知らないんですよね。この平井城も、かつては、石垣なんかが残っていたそうですよ。しかし、今は、何もない。
平井中央公園の隅に、この辺りが城だった事を示す案内板があるだけですね。まあ、秋月城や、中津城のように無かった事にされるよりは、まだマシですけどね。
しかしながら、案内板にあるのは、これまた、雑賀衆の伝説になっちゃっている沙也加の話ばかり。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、加藤清正の将として、朝鮮に渡った武将で、上陸して一週間くらいで、この戦に大義なし!として、朝鮮に寝返ったとされる人物。火縄銃を朝鮮に伝えた事から、雑賀衆だったのではないか?と推測されているらしいが、実在さえ怪しい人間ですね。まあ、この事は、もっと深く調べたいですね。
沙也加の誕生地としてアピールしていますが、平井城は、やはり、織田信長との戦いの舞台として伝えた方がいいかと思います。もはや、城跡だった事を示す遺構なんて、ほとんど残ってはいませんけどね。
だけど、この地で、織田信長の最強軍団は、雑賀衆の鉄砲にめっちゃ苦しめられたんですよね。平井城付近を流れる打手川という川があるんですけど、
そこでの激しい戦いは、今も語り継がれています。雑賀衆としては、打手川を突破されないように必死だったんでしょうね。平井については、まだまだ調べたい事があるんで、ここは、また、近々、行くと思います。
続いての木之本城も、織田信長、豊臣秀吉の紀州攻めの際に使われた城だったんですけど、この城が一番、捜索に苦労した(笑)
残念ながら、城の遺構なんてもんはなく、墓場でしたが、途中に、こんな案内板がありました。
さすがに、霊園の写真を撮るワケにはいかないので、まあ、この辺りも、木之本城の一部だったんだろうという勝手な判断のもと、それっぽい雰囲気に見える写真を撮りました。
うーん。この木之本城については、ブログに書けるくらいの情報を得ていないので、本来、書くべきではなかったのだが、無視も出来ないので、この程度、書いておきます。織田信長や豊臣秀吉が、陣城として用いたそうです。ま、その辺も、僕は詳しくは解りません😞
さてさて、やっと、史跡として残されている城が紹介出来ますよ😀 パームシティーの裏側にある、中野城ですね。
今は民家の塀の一部になっていますが、石垣は当時のまま、残されております。民家なので、あんまり、ジロジロ見るのは、さすがに出来ず、さっさと見て来ました。
織田信長との戦いで、前線基地となった城でしたが、落城し、その後は、信長の嫡男、信忠が本陣を構えたそうです。この信忠という人物は、有能な武将で、性格も、父親と似ていて、もし、本能寺の変で死を免れていたなら,豊臣秀吉の時代は来なかったかも知れないと思われます。
開発の中に埋没していく史跡が多い中、こーゆー形で残されているのは、歴史ファンとしては、すごく嬉しかったですね。
さて、雑賀衆関係の城は続きます。
次に紹介するのは、城という名称ではないんだけど、まあ、城のようなもんでしょう。
ここは、鷺森別院という寺院です。織田信長と争い、和睦した本願寺の顕如が、石山本願寺から、こちらに移ったんですね。雑賀衆は、顕如を支持していたようです。だから、こちらも、戦いには常に備えていた感じですね。堀なんかもありました。今も、雑賀孫市祭りの舞台は、この鷺森別院です。
カズシットも討ち取られてしまいました。ん? 一応、雑賀衆の子孫なんですけどね(笑)
雑賀衆といえば、鉄砲という事で、様々な団体が、祭りでは、火縄銃の一斉射撃を行います。もちろん、危なくはないので、必見ですよ。雑賀衆の雑賀孫市は、和歌山のヒーローとなっています。
愛されていますよね。
織田信長に挑み続けた武将。確かにカッコイイです。けど、実際、雑賀衆ってのは、バラバラでした。各地にリーダーがいて、そのリーダーが集まって、色んな事を話し合うという、戦国時代では珍しいスタイルでした。だから、団結して戦うという事はあまりなく、たまには、敵側についたりする事もありました。もし、雑賀衆が、一人の支配者の元で、組織されていたなら、信長、秀吉を、さらに苦しめていたでしょうね。
和歌山の夕陽を見る場所として有名な雑賀崎灯台。デートスポットでもあり、心霊スポットでもあるが、ここも、実は城だったりします。
雑賀衆の雑賀孫市が築城した雑賀崎城であり、現在は、遺構はなく、雑賀崎灯台が建っています。
恐らくは、ほとんどの市民が、ここを城だとは思ってないでしょうね。和歌山には、まさか、ここが城だったなんて!という場所が多く見られます。
すごく夕焼けが美しいスポットです。戦国時代も、もちろん、夕焼けは見えたでしょうから、雑賀孫市も、城から夕陽を眺めていたかも知れませんね。まあ、戦国武将が、夕陽なんか眺めてる余裕ないか(笑) つーか、いい場所に城を築きましたよね。しかしながら、この雑賀崎城も、豊臣秀吉の紀州平定で、廃城となります😭
ちょっと和歌山市内から離れます。
カズシットが幼少期を過ごした田辺市です。前にもブログに書いてますけど、ここにも、城がありました。徳川頼宣の名家老、安藤直次の一族か代々、居城とした田辺城です。
今は水門と、石垣だけ残っています。
1791年、実は黒船来航よりも先に、アメリカ船が、現在の串本に現れるという事件があり、1831年には、外国船来航に備えた改修を行っている。しかし、1863年には、外国船からの砲撃を恐れて、城の移築まで決めたようです。結局、移築は取り止めになっているんだけど、海に隣接した田辺城だけに、外国船に対する警戒は他の城よりも強かったんだろうね。
1868年、安藤直裕の代に、明治政府に認められ、紀州藩から、紀伊田辺藩として独立するも、1871年の廃藩置県で、廃藩となり、城は、ブッ壊されました。
田辺城主だった安藤氏は、明治以降も、華族として、高い地位にあったようです。
またまた、時代は戦国に戻ります。
皆さんは、藤堂高虎を知ってますか? 歴史に詳しくない人でも、その名前、聞いた事あるよ❤️と言う人はいるでしょう? 城作りの名人として有名ですからね。実際、藤堂高虎が築城に関わった城は、江戸城、大阪城、二条城、伏見城など、多数。和歌山城にも、関わっています。そんな藤堂高虎が、粉河に築いた城が、猿岡山城でした。元々は粉河寺が、寺の防衛のために築城したんだが、1585年に、藤堂高虎が入城し、改築。粉河寺を牽制する狙いがあった。
人っ子一人いない山道を歩いて、城を目指したのだが、なかなか、びびりましたね。しかも、粉河には不審者注意の看板が多く、それって、俺の事やん!と思いながら歩いてました😂
野生動物を警戒しながら、何とか到着。
ちなみに、猿岡山城は、藤堂高虎が、宇和島に移封された後に、廃城となっています。
しかし、人間の気配が全くしない不気味な場所でしたね。僕以外に人がいませんでしたからね。心霊スポットという話も聞いた事ありますね(笑) でも、幽霊なんかよりも、野生動物の方が恐ろしいカズシットでした。
粉河では、雑賀孫市の父である鈴木佐太夫が、藤堂高虎の謀略により、切腹させられており、その場所が、この猿岡山城だとも云われておりますね。
またまた、話は江戸時代に飛びます。
地元の人も、その存在を知らない城がありました。それが、貴志城です。遺構は何もないため、そりゃあ、存在を知らない人も多いでしょうね。だって、これが、城ですからね。













































