カズシットは、孤独死が濃厚だから、終焉の地は、この部屋になるんだろうと思います。きっと、最後に見る風景(笑)は、こんな感じでしょうね。



主人を失った家は荒廃が進み、最終的には廃墟となる。そしたら、心霊スポットか何かになって、この家が、『パンクの家』とか呼ばれたりするんだろうな。



はい、住人です。まあ、心霊スポットによくある人形とかも揃ってますし、



座敷童子の家みたいですけど(笑)、中には、住人本人も、夜は目を合わしたくないヤツもいたり、



心霊スポットには、よくある日本人形もいますよ(笑)


この子は、カズシットの古くからの友達なんですけどね。子供の頃の最初の話相手でしたね(笑)

けど、呪いの込められたものも存在します。これ↓なんですけどね。


不登校時代に、学校のクソッタレどもに対して、憎悪を込めて作ったもんです。これこそ、今、流行りの、特級呪物というヤツでしょう。が、こんな話を書いていると、永遠にブログが始まらないので、そろそろ、本題に入りますね。

終焉の地。
歴史上の人物には必ず、それが存在します。明らかになっているか、どうかは別として。全員の終焉の地について書いたら、この前の、カフェのブログ以上に長くなってしまうので、三人ばかり紹介したいと思いますね。

まず、最初は、和歌山の英雄を紹介しますね。和歌山駅に行けば、必ず、そこには彼がいますね。


紀州の英雄、太田左近です。正式名称はね、太田宗正ですね。こんな人、知らねーよ!って人が多いでしょうね。確かに、メジャーな存在ではありません。しかし、僕の中では、その存在はデカイです。


太田左近は雑賀衆の一人でもありますが、同じ雑賀衆の雑賀孫一とも争ったりもしています。雑賀衆ってのは、一つにまとまった集団ではなかったんですよね。そして、彼は、あの豊臣秀吉とも戦います。こちらが、有名な話です。ちなみに、雑賀孫一は、秀吉側についておりました。



一度、秀吉に弓を引いたのだから、大軍にびびって降伏するのは勇士のする事じゃない。この城を枕に討ち死にする覚悟だ!と言い放った太田左近は、太田城に籠城し、秀吉の大軍と徹底抗戦する事を決意しました。しかし、戦力は今、判明している資料によれば、こんな感じ。


豊臣秀吉は、数的には余裕だったんだが、味方の兵力の減少を避けるため、水攻めを用いたんですね。秀吉の三大水攻めの舞台に、この和歌山は選ばれてしまったワケです。しかしながら、太田左近は抵抗を続けます。水泳の名手を選抜し、秀吉軍の船底に穴をあけて沈没させたり、雑賀衆らしく、鉄砲で応戦し、大軍の秀吉側を苦しめたそうです。中でも、太田軍の松本助持が、秀吉軍が築いた堤防の一部を破壊して、宇喜多秀家の軍に多大な損害を与えたという。この場所が、出水という地名になったそうだ。そこには、今も、秀吉軍が築いた堤防の一部が残っています。


車がバンバン走る道から見えますが、秀吉の築いた堤防だと知っている人は少ないでしょうね。ちなみに、堤防を壊して、宇喜多軍に大打撃を与えた松本助持は、後に、秀吉の弟である秀長に仕えております。この辺りが戦国らしいですね。


多勢に無勢。戦力的に圧倒的な差がある、この戦いは、秀吉側の勝利となり、太田左近は、城内の女子供の助命を条件に、家来共々、自害したそうです。首は、三か所に埋められたそうですが、その一つが、小山塚ですが、後の二つは不明です😭 歴史の教科書には決して載るような人物ではないが、天下人である豊臣秀吉の大軍を前に、少数でも臆する事なく、徹底抗戦した、その勇姿は、まさに、武将の姿ですよね。現在の来迎寺は、太田城の本丸だった場所で、太田左近の終焉の地といえますね。

そして、時代はちょっと変わります。
皆さんは、大化の改新は知っているでしょう? 日本史の試験には必ず出ていたはずだから。僕は、日本史の漫画でも、その場面はよく見てました。悪役の蘇我入鹿が、イケメンの中大兄皇子と、中臣鎌足によって倒されるという事件ですね。漫画の中では(笑)


その主人公的存在中大兄皇子が、天智天皇になるワケですが、大化の改新後の彼は、漫画の主人公には相応しくない人物に成り下がってしまいます。自らが権力を握り、それを強固にするために、何人もの人間を殺していくんですね。まずは、異母兄の古人大兄皇子を謀叛の疑いで殺し、大化の改新では協力者であった蘇我倉山田石川麻呂と、その一族を、謀叛の疑いで、自害に追い込み、従兄弟に当たる有間皇子も、蘇我赤兄を使って、罠にハメて、処刑している。そんな有間皇子の終焉の地が、和歌山は海南市にある。


有間皇子は、若くして知的な人物で、政争に巻き込まれるのを避けるために、病気のふりをしたりしていたが、そこに、蘇我赤兄が近づき、中大兄皇子の失政を指摘し、有間皇子に挙兵を促したとされています。有間皇子が、打倒・中大兄皇子を決断して、しばらくすると、有間皇子の謀反が露見します。それは、蘇我赤兄が、中大兄皇子に密告したためでした。尋問された有間皇子は、真実は、天と赤兄のみが知る。俺は知らない!と言ったそうです。まあ、最初から、中大兄皇子と、蘇我赤兄はグルだったんでしょう。


和歌山の海南、藤白坂で、有間皇子は絞首刑に処されたそうです。歌人としても知られている有間皇子は、護送中に、家にあれば 笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛るという歌を詠んでいます。家にいれば器に盛る飯を、こういう旅だから椎の葉に盛ることだという意味です。ちなみに、悪人の蘇我赤兄は、後の壬申の乱で、大友皇子についたが、敗れて、配流された。


藤白坂の、有間皇子が絞殺された場所には、有間皇子の墓碑と、歌碑があり、ここが、悲劇の皇子、有間皇子の終焉の地である事を伝えております。

話は再び、戦国に戻ります。
我が街、和歌山に、何度も攻め込んで来たのが、天下人、織田信長です。雑賀衆との戦いは、信長を悩ませた戦いだったといいます。そんな織田信長の側近に、明智光秀という人物がいます。日本史の中では、超有名な反逆者ですけど、最近は、評価も良くなって来てますよね。去年は大河ドラマの主人公にまでなっていました。そんな明智光秀の終焉の地を最後に紹介しますね。



それは、京都府小栗栖という場所になります。明智光秀は、織田信長を本能寺で、自害に追い込んだ後、中国地方の毛利攻めから、最速で引き返して来た羽柴秀吉に、山﨑合戦で敗れ、落ち延びる途中、竹藪の中で、落武者狩りの農民に、竹槍で突かれて亡くなるという描写があまりにも有名で、天下統一目前の信長をいきなり裏切って、殺してしまったのに、あっさりと、秀吉に負けた末、農民の落武者狩りに遭い、落命するという、この惨めな最期は、光秀をめちゃくちゃ貶めている感じがするので、僕個人としては、秀吉の考えたシナリオだろうと思っています。秀吉は、織田信忠の手柄さえ、自分のものとしたり、自らを生きながら神にしてしまったり、とにかく、自分をドラマチックに飾る習性があるので。


しかし、竹藪で、光秀一行が襲撃されたというのも嘘ではない気もしますね。光秀が、生き延びて、徳川家康のブレーン南光坊天海になったという話は、非常に面白いんだけど、現実的ではないもんね。


実際に、現地を訪ねましたが、なかなか、雰囲気のある薄暗い場所でした。京都府警のお巡りさんをナンパして、案内してもらいました。いつも、地元で、職質されていたので、たまに、こちらから、声をかけてもいいでしょう(笑) 親切に教えてくれましたよ。案内がなかったら、迷ってましたもん。それくらいの場所でした。


この竹藪で、明智光秀を襲撃したのは、落武者狩りの農民ではなく、織田信長に仕えていた小栗栖の武士団、飯田一党であるという説が、地元には根付いている。小さな武士団ゆえに、半農半士だった可能性も強く、落武者狩りの農民に間違えられるのも理解出来る。飯田一党の飯田左吉兵衛が本能寺の変で死んだらしく、恨みを持っていた飯田氏の一党が、周辺の民衆を引き連れて、光秀を待ち伏せし、襲ったのかも知れないですね。ただ、光秀は、その場では死なず、重傷を負っていたので、城まで落ち延びて、そこで自害したという話があります。光秀の場合は、首が発見されていないといいますからね。真相はマジで解らないんです。


大河ドラマでは生存してましたし(笑) 死体が見つかっていないという事は、生存していても何の不思議もないでしょう。信長ならば、もし、本能寺の変で生存していたとしたら、すぐに、光秀討伐に動いていただろうし、そのまま、消える事はあり得ないので、死体が見つからなかったのは、光秀と同様にしても、きっと、マジで亡くなったのだろうと推測出来ます。光秀の場合は、状況も悪いので、生き延びたとしても、再び、勢力を盛り返そうとはせずに、それこそ、別人になりすまして生きたとしても、不思議はないでしょう。このまま、自分は死んだ事にしといてくれ!って思ったとしても、リアルに頷けます。けど、光秀は武士ですからね。敗戦して自害したと考えるのが妥当でしょうね。


光秀がなぜ、信長を討ったのか。様々な説がありますよね。本能寺の変・原因説50総選挙みたいなのがあるくらいですから。信長に対して、恨みを持っていたという怨恨説とか、後ろに、足利将軍がいたとか、朝廷に操られたとか、色々言われておりますが、明智光秀は誰にも操られていないし、信長に恨みがあったワケでもないと、僕は思ってますよ。たまたま、織田信長を討つチャンスがあったので、実行しただけだと思います。戦国の世って、そんなもんでしょう。機会が巡って来たら、別に明智光秀でなくても、それを実行しようと考えた人は多いでしょう。親兄弟でさえ、潰し合うような時代ですからね。本能寺の変の原因は、織田信長が油断し過ぎていた!って事ですよ。ただ、明智光秀も、信長を倒した後の事を考えていなかった。この機を逃さぬようにと、必死だったから、そこまで考えていなかったんだろうな。羽柴秀吉は、想定をしていたかも知れないですね。だから早く動けたんでしょう。まあ、我々は想像するしかない。歴史って結局、勝者が作っていくものだから。

今日は三人の人物の終焉の地について書きました。史跡を訪ね歩くのが好きなカズシットは、立ち入ってもいい場所であるなら、何処にでも行くつもりなんで、これからも、そういうブログは書いていくと思います。歴史の闇に葬られた敗北者にスポットライトを当てるのも、また、新しい発見なんかが出来たりして面白いし、勝者が自分の都合の良いように作っていく歴史の裏側に潜む真実は、彼らと争い、敗れていった者たちが何らかの形で、我々に語ってくれるような気がします。奥が深いですよ、歴史は。