カズさんの旅たび

カズさんの旅たび

~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

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食後は「アテナイのアクロポリス」に向かった。昼前に見学した「ローマ時代のアゴラ」入口前まで戻って、更に南に200メートルほど進んだ後、右折して綺麗に舗装された坂道を上って行く。その坂道はしばらく西に向かっていたが、大きく左に回り込み急勾配の坂を上って行く。


緑の合間に見える丘の上に建つ4本のイオニア式円柱は、紀元前424年、建築家カリクラテスにより建てられたアクロポリス見所の一つ「アテナ・ニケ神殿」である。幅5.4メートル、奥行き8.3メートルの敷地を持つ小神殿で、内部には勝利の女神ニケ像(木製)が奉られていた。

通路右側の(南西)斜面から麓にかけて「ヘロディス・アッティコス音楽堂」の観客席が続いている。161年にギリシャ人貴族でローマ元老院議員のヘロディス・アッティコスが、妻を偲んで建設した劇場で、約5000人の収容が可能だった。当時は高価なレバノン杉の屋根で覆われていたが、267年にヘルール族により破壊された。


音楽堂は、近年改修され、毎年5月から10月にかけて「アテネ・フェスティバル」(1955年より)(エピダウロス・フェスティバル同時開催)として、ミュージカル、オペラ、バレエ、演劇、演奏会などのイベントが開催されている。舞台背後に聳える壮大なスカエナエ・フロンスが印象的で、古代にタイムスリップした気分を味わえる。

すぐ先でアクロポリスの改札口がある踊り場となり左折して入場する。ちなみに直進すると南側斜面を通って東方面に下山する道となる。改札口から入場すると崖を迂回する様に左から右に回り込み「ブレの門」に到着する。267年のヘルール族の侵攻で被害を受けた後に造られたもので、1852年にこの門を発見したフランスの考古学者エルネスト・ブレの名に因んでいる。その門の先には勾配のある階段が続いている。



階段の最上部に見えるのがアクロポリスの入口門(プロピュライア)になる。


そして、手前左側の立方体のモニュメントにはローマ将軍アグリッパを称える「アグリッパの青銅像」が飾られていた。当時の碑文がモニュメントそばに置かれている。しかし、モニュメントは、もともとペルガモン王エウメネス2世(前2世紀)が、馬車に乗った自分の像を置くために建造したものとされている。


そして、対する右側(南西角)の崖の先端には「アテナ・ニケ神殿」が建っている。アテナ・ニケ神殿のファサードは、反対側になることから、階段を上りプロピュライアを抜けて、回り込んで向かったがかなり手前から進入禁止で、僅かに外観が見ることができるだけであった。



さて、入口門(プロピュライア)を過ぎると広い見学通路が前方に続いており、通路やや北側に見える、丘の傾斜面に建つ3棟が連結する様な建物が「エレクテイオン神殿」で、特に西角のテラスの6体の少女柱像が屋根を支える「カリアティード」が有名である。


その手前に高く積み重なる石材(石灰岩)は「アテナ古神殿」(南側からの様子)遺構である。


そして、エレクテイオン神殿の手前に並ぶ球状の彫刻が施された大理石材は、9メートル程の「アテナ・プロマコス像」青銅像(紀元前456年頃築)が立っていた基壇である。像は、左手に盾、右手に槍を持って立つ姿で、頂部はアテネから45キロメートル南東のスニオン岬からも見えたという。その後、青銅像は465年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルの皇帝宮殿に移設され、1205年に破壊されてしまう。

エレクテイオン神殿から、右に少し視線を移すと、丘の中央からやや南側に、アクロポリス最大の見所「パルテノン神殿」が建っている。西側に向いた神殿は、30.9メートルある基壇の上に、約10メートルの高さの8本のドーリア式の円柱が建ち並ぶ姿で、プロピュライア(正門)方向を向いていることから、正面側と思ってしまうが、実は反対側の東面が神殿の入口になる。


見学通路は、神殿の北側に沿って続いている。その神殿の北側(南も同様)の基壇は69.5メートルの長さがあり、その巨大さに驚かされる。このパルテノン神殿は、アテナイの最盛期を築き上げた政治家ペリクレス(前495?~前429)の建設計画の下、紀元前447年に工事が始まり紀元前431年に完成したものだが、もともとは、紀元前490年の「マラトンの戦い」での勝利を祝って紀元前488年から建設された「初期のパルテノン神殿」が始まりで、その後、紀元前480年「ペルシア戦争」において建設途中に破壊された後を受け継いで建設されている。


長い歴史を持つパルテノン神殿は、267年のヘルール族の侵攻や、396年の西ゴート族との戦いなどで大きな被害を受けた。その後は、役割を大きく変え、6世紀には「生神女マリヤ聖堂」となり、1453年のコンスタンティノープル陥落以降、ギリシャがオスマン帝国の支配下に置かれたこともあり、モスクへと変えられた。ヴェネツィア共和国とオスマン帝国との戦いとなった1687年の大トルコ戦争当時は、神殿をオスマン帝国の弾薬庫としていたことから、ヴェネツィア共和国が放った砲弾が爆発し、壊滅的な被害を被ってしまう。

1975年から始まったパルテノン神殿修復計画は、1687年の大トルコ戦争で被った破壊以前の姿に戻す計画だが、具体的な工事が始まったのは1983年からで、その後も停止や再開が繰り返された。そして、2010年に発生したギリシャ危機や、その後の財政健全化などからギリシャ国内の景気回復の見通しもないまま遅々として工事は進まず、現在に至っている。とは言え、こちらの北面に並ぶ17本の柱やアーキトレーブは修復が終わり壮麗な姿を見せてくれる。


パルテノン神殿の北面と向かい合う様に立つのが「エレクテイオン神殿」(前421~前407築)で、入口門(プロピュライア)からの複雑な構造と異なり、西角の「カリアティード」(6体の少女柱像)が前面に張り出しているものの、綺麗な長方形になっている。


そのエレクテイオン神殿の手前に広がる遺構が「アテナ古神殿」の址で、エレクテイオン神殿より100年前の紀元前525から前500年頃に建てられ、エレクテイオン神殿の東西の横幅の約2倍ほどの長さ(東西)43.15メートル、南北21.3メートルの敷地面積を持ち、石灰岩の基礎の上に12本×6本の円柱で囲まれていた。その後、紀元前480年のペルシア戦争時に破壊され、円柱やエンタブラチュアなどの部材は、アテナイの政治家、執政官テミストクレス(前520頃~前455頃)の指示により、破壊された城壁の北壁の再建に活用された。

エレクテイオン神殿の東側に向かうと、北壁の手前には大理石の部材が積み重ねられており、その先(北側)に「リカヴィトスの丘」(標高277メートル)が望める。アテネ市街地では最も標高が高い丘で、麓とはケーブルカーで結ばれている。頂上には、聖堂や劇場、レストランなどがある。ちなみに、こちら「アクロポリスの丘」は標高150メートルである。


エレクテイオン神殿の東側はイオニア式の柱廊式ポーチ(玄関)で、柱頭上部の3層のエンタブラチュア上のペディメントや天井は失われている。2層目のメトープは青灰色石灰石で、もともとは、表面に大理石の浮き彫が釘留めされていたが、穴のみが残っている。その神殿中央部を覗き込むと、長方形に並べられた仕切り石のみが残っていた。北側には、南外壁同様に大理石が積み上げられた外壁で構成されている。


東ポーチから北西側には、大きく張り出した北ポーチ(玄関)が望める。北ポーチへ向かうには、東ポーチから右側にある階段を利用する(中央見学通路からも行ける)。


階下から東ポーチ方向を振り返ると、3メートルほどの高低差があることが分かる。


北ポーチ(玄関)は神殿本体から西にやや雁行して配置され、6本(前面に4本、左右内側に1本づつ)のイオニア式の柱廊が、ほぼ完全に残る天井を支えている。天井の位置は、東ポーチ側と変わらない高さだが、低い位置から建っていることから非常に遠くに見える。


その天井には、大きな大理石の梁と形状のくぼんだパネル格間(ごうま)が交互に配置されている。


再び、階段を上り、東ポーチ前を通りすぎ、東方向に向かうと、丘の東端にギリシャ国旗が掲げられた展望台があり、多くの人が集まっている。

 

展望台から北方向を眺めると「アテナイのアゴラ」の方角になり、左側に「ヘファイストス神殿」「アギイ・アポストリ教会」「アッタロスのストア」などが見える。

 

少し手前には午前中に見学した「ハドリアヌスの図書館」、「ローマ時代のアゴラ」の「風の塔」などが見渡せ、街並みの中に古代遺跡が共存しているのがよく分かる。


展望台から、パルテノン神殿に向かうと神殿の20メートルほど手前に「ローマ神殿とアウグストゥス」の遺構がある。ユリウス・クラウディウス朝時代の紀元前27年に建てられた円形の小さな神殿(直径8.6メートルの円形にイオニア式の9本の円柱が建ち、円錐形の屋根まで7.3メートルの高さがあった)で、丘上に建てられた古代建築物としては最後となった。現在は崩壊して、碑文が残った石材のみが折り重なっている。


パルテノン神殿を東側の正面側から眺めてみる。僅かに残る東ペディメントには、ゼウス神の頭部から女神アテナが誕生する場面が残されている。メトープには、オリンポスの神々が巨人と戦ったギガントマキアー大戦の浮彫が施されているとのことだが、僅かに高浮かし彫りであることが分かるほどで酷く痛んでいる。ちなみに、1687年の大トルコ戦争で大きな被害を被った南側中央付近の柱はまだ修復されていない。


神殿には他にも、若干の彫刻が残っているが、多くは外され、2009年に開館したアクロポリス博物館に収蔵されている。海外では、パリのルーヴル美術館、コペンハーゲンなどに保存されているが、彫刻群の大半は大英博物館にある。それら彫刻群は、エルギン・マーブルと呼ばれ、1800年、イギリスの外交官エルギン伯爵トマス・ブルース(1766~1841)が、オスマン帝国第28代皇帝セリム3世(在位:1789~1807)の許可(当時のギリシャはオスマン帝国領)を得て、多くを切り取りイギリスへ持ち帰ったためである。近年、ギリシャ政府は、イギリスに返還要求しているものの実現していない。。

パルテノン神殿の南側からは展望が開けており、南西方面を眺めると、右側に緑豊かな小高い山(標高147メートル)「フィロパポスの丘」が望める。頂上に見える建築物はアテネの発展に大きく貢献した古代ローマ時代の執政官「フィロパポスの記念碑」で、周りには野外劇場がある。そしてその先の「ピレウス港」や、更にその先の沖合には「サラミス島」の稜線まではっきりと見える。

 

ピレウスと言えば、アテネ到着の夜、最初に向かった星付レストラン「Varoulko」や、ペロポネソス半島から、ギリシャ本土に戻ってきた際に、ピレウスを経由し、左側に続く海岸線「アポロ・コースト」を通り、「スニオン岬」まで行ったことを思い出し感慨深い。

ところで、この海域は、紀元前480年にアテナイのテミストクレスが率いるギリシャ軍と、ペルシアの王クセルクセス1世(在位:前486~前465)率いるペルシア艦隊との間で行われた「ペルシア戦争・サラミスの海戦」で知られている。テミストクレスは、海戦に先立ち、アテナイを放棄し市民を疎開させ、戦える市民は船に乗せて軍を強化したことで勝利を得ることができた。しかし、その代償としてペルシアに町を占領され破壊されることになった。

視線を下げてアクロポリスの崖の下を覗き込むと、中腹に続く山道が延び、その下の斜面から麓にかけて、すり鉢状の野外劇場「ディオニュソス劇場」が一望できる。その先の木々を挟んで南側に見える近代的な建物が「アクロポリス博物館」である。


そして東側のビルを挟んだ先には、広い敷地に僅かな円柱だけが建つ「ゼウス神殿」が見える。


ゼウス神殿の建設は、紀元前550年頃のアテナイ僭主ペイシストラトスにより始まったが、度重なる計画変更、政治体制の移行や変化など様々な要因により、600余年が過ぎた132年、ローマ皇帝ハドリアヌスにより完成した。ローマ帝国期を通じて建てられた神殿の中で最大と言われ、幅41メートル×108メートルの基壇に104本のコリント式の柱が建てられた。神殿にはハドリアヌスの像が置かれ、その本殿にはゼウス像が祀られていたと言われている。

2時間ほど見学した後、再び入口門「プロピュライア」から階段を下り、改札横のゲートから丘の斜面を下りていく。


左側の「ヘロディス・アッティコス音楽堂」では、アテネ・フェスティバルの準備をしていた。


丘の南斜面を東方向に続く山道を下りていくと、麓の途中に、紀元前420年頃に建てられた病の治癒を祈願する人が訪れる治癒所「アスクレペイオン」の遺構があり、

 

その先で、「ディオニュソス劇場」に到着する。最初の劇場は、紀元前6世紀頃に造られ、ディオニュシア祭(ディオニュソス・エレウテリオス)の会場となった。祭りは、アッティカのエレイテライを起源とし、ワインと豊穣の神ディオニュソスに捧げる祭で、ギリシャ悲劇や後に喜劇も演じられた。

その後、紀元前4世紀に、アテナイの政治家リュクルゴス(前390頃~324)により最大17,000の収容能力を持つ石造りの劇場に改築された。

 

劇場の観覧席の中央には豪華な座席が残され、椅子の幕板部分に残る碑文に「ディオニュシア祭で座る神官の専用席」と書かれている。

 

紀元61年、第5代ローマ皇帝ネロの時代には、大規模な修理が行われ、舞台(プルピタム)の色石への敷き替えや、剣闘士の戦闘中に聴衆を保護するため大理石の障壁などが設置された。


舞台には3世紀制作のディオニュソスの生涯のシーンを示す4つの石のレリーフが飾られている。中央にディオニュソスの従者で、酔っぱらいの巨人シーレーノスがしゃがみ込み、向かって左から、ディオニュソスの誕生、ディオニュソスのアッティカへの入口、そしてディオニュソスとバジリンナの結婚、ディオニュソスの即位と続いている。その後、ディオニュソス劇場は、5世紀後半に放棄され、教会の中庭や採石場となった。


観客席からアクロポリスの丘を振り返ると、自然の岩山の上は、石材が積み重ねられ城壁になっていることが分かる。こちらが、紀元前480年のペルシア軍によって被害を受けた後に再建されたもの。戦争中、市民のほとんどは、テミストクレスの指示に基づき、避難していたが、実際に帰郷できたのは、翌年の紀元前479年「プラタイアの戦い」でギリシャ軍が再び勝利を収めた後であった。焼け野原となった町の復興に取り掛かる市民が、最初に行ったのが、市壁やこちらの城壁の再建と強化だった。

城壁下部の岩には「トラシュロスの合唱隊記念碑」が残っている。こちらは紀元前320〜前319年に小さな寺院の形で建てられた記念館で、断崖に開口部が残されている。そして、1802年には、洞窟内に聖母マリアに捧げられたパナギア スピリオティッサ教会が設置されたが、ギリシャ独立戦争時の1827年にオスマン帝国の砲撃によって破壊された。


次に「ディオニュソス劇場」から南に進み、東から西に延びる歩行者専用道路(ディオニュシウス・アレオパギタ通り)を東に向い、幹線道路沿いを歩いて「ゼウス神殿」に到着した。幹線道路沿いのアクロポリスの丘の方向に向いて建つ「ハドリアヌスの凱旋門」をくぐった先が入口になる。時刻は午後7時半。午後8時で閉園となるためあまり見学時間はない。



アクロポリスの丘からもその大ささを確認できたが、近くで見ると迫力ある姿に圧倒される。現存するコリント式の円柱は15本が残されており、高さは17メートル、ファサードを含めると高さは27メートルにも及んだ。現在の姿は、ローマ神やギリシャ神が否定された後の5世紀以降に破壊され、石材を周辺のキリスト教の聖堂建築に再利用されたことによる。


夕食は「アテナイのアクロポリス」のライトアップが望め、料理の評価が高いレストランを前提にトリップアドバイザーで探していたが、「アドリアヌ通り」沿いにあるタヴェルナ(Diodos Archaias Agoras)がお勧めだったことから、今日午前中「アテナイのアゴラ」に行く前に予約しておいた。予約時間も迫っており、アクロポリスの東側から北側に向かって麓沿いを回り込む様に続く狭い通りを急ぎ歩いて向かった。

そのタヴェルナ(Diodos Archaias Agoras)には、午後8時半頃到着した。ちょうど、日の入り間際の時間で、夕日が「アテナイのアクロポリス」や、手前のアテナイのアゴラの「アッタロスのストア」を赤く照らしていた。


日没後、中央に見える「エレクテイオン神殿」の北ポーチや「パルテノン神殿」が、ライトアップされオレンジ色に輝きだした。その手前の北壁に紀元前480年ペルシア戦争で破壊された「アテナ古神殿」の円柱やメトーブなどの部材がむき出しのまま埋め込まれているのが確認できる。これらは後世へ戦争の記憶を受け継ぐ目的だったと言われている。


ソーセージ(8.5ユーロ)とシーフードミックス(19.5ユーロ)を注文したが、写真を取り忘れた。。料理は味に力強さもあり美味しかった。飲み物は、Mamosビール(5ユーロ)と、ロゼ・ワイン「Evosmon」(18.5ユーロ)を注文した。ビールは、ギリシャ伝統的なピルスナーで、ホップの香りがあり、フレッシュな味わい。ワインの品種はブラック・マスカットで、甘味の中にバラの香りがあり爽やかな酸味も感じられた。


タヴェルナ前は、眺めが良いことから多くの通行人が記念写真を撮っていた。しかし午後9時半頃になると周りも暗くなり、人通りも少なくなった。「アテナイのアクロポリス」は、丘の中腹から白く美しく輝き始めた。実は、今夜がギリシャ滞在のフィナーレ・ディナーでもあり、最後を飾るにふさわしい眺めとなった。


お腹もいっぱいになったところで、最後にアイスのデザートとグリューワインのサービスがあった。テラスのお客もほとんど帰った中、担当のスタッフの小太りおじさんの、ひょうきんな行動に笑えた。2時間ほど滞在しすっかり満足し、午後10時半頃にタヴェルナを後にした。


地下鉄モナスティラキ駅のあるモナスティラキ広場まで戻ってきた。最後に、ハドリアヌスの図書館前のライトアップの様子を眺めた後、地下鉄でホテルに帰った。

(2019.5.29)