乳色のウエハースを軽くザクッと噛んで、クリームソーダのアイスの部分に差した。

 ぶくぶくとストローで泡を立て、その後ズズッと翠玉色のソーダを勢いよく吸い込む。

 それが彼の流儀だった。そして、これが彼との出会いだった。

「先生、よろしくお願いします」

 彼の母親が彼の後頭部を無理やり手で押さえながら、同時に頭を下げた。

 姓は下山、名は啓司、周りの仲間たちからは「デカ」と呼ばれた。それは啓司という名前もそうだが、父親が本当の刑事だったから。

 啓司と私の年齢差は十四歳。三十路前の私にとっては弟、いや息子のような感覚だった。一度は正社員として就職したものの、一年で挫折してからは派遣とアルバイトなどで食いつないでこの歳に至る。今は家庭教師のプロとしてアルバイトという形態ではあるが、それなりの収入がある。

 私について言えること。二十九歳で、彼氏持ち。彼氏は私立高校の教員。正式には中高一貫校の国語科で現代文担当の教諭。彼氏の収入と貯金が彼氏の告知通りなら結婚しても専業主婦で十分にやっていける。

 純喫茶の重たそうなドアを開けようとすると紺のブレザー姿の啓司が前に行ってドアを開けてくれた。なんだ、中学生坊主、なかなか優しいではないか。

 喫茶店を後にした三人は早速これからしばらく私の勤務地の一つとなる彼の家に向かった。踏切を二つ跨いで、信号を三つだったかを渡ると角のコンビニを曲がった先に啓司の自宅が見えてきた。

「コンビニが近いからいいわね」

 そんな愛想笑いとそんな言葉しかでてこない自分の語彙力の乏しさに呆れ返りながらも、啓司の家に上げてもらう。

 中学三年生の男の子の部屋にしては綺麗な部屋。木の机が一つあって端にはベッドが、中央には座り心地の良さそうなビーズソファが鎮座する。

 私の想像するに、中三の男子の部屋はといえば、脱ぎ散らかした服に、食べかすのカップラーメンのカップや空のペットボトルが散乱した、というイメージ。

 啓司の部屋は違う。あまりにも整然としすぎて逆に生活感がない。まるで私が来るからと畏まって片付けたような感じ。

 真白な部屋の壁には小洒落たA4サイズの額縁が飾られている。額縁の中の画はひまわり畑の中に麦わら帽をかぶった女の子が一人天空に両手を広げて立っている。

 机の上の棚には綺麗に整頓された教科書や参考書が図書館の棚のように順番通りに並んでいる。

 はは~ん、啓司はA型に違いない。

「じゃあ、今日から家庭教師をさせていただきます山根京香と言います。よろしくね。っていうか、さっき喫茶店で挨拶したけど。まあ、改めてよろしく、ってことで」

「ああ」

 素っ気ない返事で私のやる気を削ぐ。まあ、部屋にはギャップがあったけど、このあたりの返事の素っ気なさは思春期男子ってところね。

 今日は、平均点以下だった数学と、平均以上は取れたけれどもっと点数を伸ばしたい英語の二科目。契約は国語を入れた三教科だけど。

 一通り終わって、私は帰途につく。

 プルルルル、プルルルル。

 バッグの中の携帯が震えている。

「川崎優希」

 あ、彼氏からだ。

「もしもし、うん、うん。今から帰るところ。うん。帰ったら電話する」

 バスに乗り込む寸前だったから素っ気ない返事をしてしまう。素っ気ない、あ、啓司のこと言えないね。

 啓司の最寄りのバス停から私の自宅の最寄りのバス停までは5つ分。後部座席の運転手側に座り、窓にもたれて携帯を見る。メールが一件。

「下山啓司」

 啓司? 何だろう。

「先生、なんか忘れ物してませんか?」

 え? 何だろう。バッグの中を慌てて確認する。え? 何? とりあえず啓司にメールを返信。

「ごめん、何を忘れたかな?」

 ラインの交換は禁止だけど、連絡手段としてメールアドレスのやり取りだけは家庭教師派遣センターから許可を得ている。

「僕もよくわからないんだけど……」

 啓司からすぐに返信あり。

 わからないもの? わからないものを忘れたのか。とりあえず、メールを返さなきゃ。

「ごめん。次、授業がある時まで置いててくれない?」

「わかった」

 やっぱり、啓司は素っ気ない。

 自宅に帰った私は疲れて眠りに就いた。

 

 ジリリリリ、ジリリリリ。

 目覚まし時計が怒鳴るようにけたたましい音を立てている。もがくように目覚まし時計を探してアラームを止める。

 もう朝か。

 プルルルル、プルルルル。

「川崎優希」

 あ、しまった。昨日、彼氏に折電するの忘れてた。

「もしもし。だって、疲れてて寝てしまったんだよ。仕方ないでしょ」

 なんか、彼氏の方は少し機嫌が悪かったみたい。私も朝から忙しくて少し冷たくしてしまった。

 二十九歳。来年三十路。だんだん重力に勝てなくなってきた胸の張り。二の腕もやばい。

 

 啓司への家庭教師の仕事が始まってから、彼氏にもあまり会ってない。疎遠になってないと言ったら嘘になる。

 啓司の家のドアホンを押す。啓司の母親が優しい声で「玄関空いてますから入ってください」と応える。

 私はもう慣れた手つきでドアを開けて、私専用にスペースを作ってもらった靴箱にヒールを置く。

 啓司の部屋に入る。

「ああ」

 やっぱり素っ気ない。

「これ」

 私の忘れ物を指差す啓司。

「キャッ」

 私は思わずバッグでその忘れ物を隠して、赤面しながら、ごめん、と啓司に謝った。

「これ、知ってるよね? 啓司くんの歳なら」

「何それ?」

 意外に返事が早かった。そっか、知らないならあえて言う必要もないか。でも教えておくべきか。

「あのね、それはね、その、あの、だから、毎月ね」

 しどろもどろになる私。何してんの、私、もう三十路前のおばさんだよ。

「知ってる」

 え? 知ってるの? 何よ、私より啓司の方が大人じゃない。わざと知らないフリしてくれてたんだ。

 へえ、そういう優しさ、ってあるんだ。私、初めてだな。こんな風にされるの。何よ、中三の坊主に私、骨抜きにされてるじゃない。あー、あー。ちょっと意地悪なんだけどさ、いるのかな? カノジョ。

 あー、そう言うの、聞く私の方がデリカシーないか。そうだよね、いたっていなくたって関係ないよね。私の仕事は啓司が高校に無事受かること。だから、この思いは胸に秘めることにした。

 

 三月の高校入試。啓司は無事志望校に合格。と言いたいところだけど、残念ながら落ちてしまった。家庭教師としては失格かもしれないけれど、私立の高校に受かっていたので啓司もお母さんも喜んでくれた。それに言い訳かもしれないけれど、大学進学を考えれば、付属の高校に入ったので本人は納得しているみたい。

 

 純喫茶のドアを開けて中に入る。一番奥のテーブルにつく。初めて三人が会ったこのテーブルで、私とお母さんはアイスコーヒー、啓司はクリームソーダをオーダーした。

 乳色のウエハースを齧る啓司。少しは成長したかと思ったけど、相変わらず子どもは子どもね。

「ねえ、先生。○○付属ってどんな学校? 先生が勧めてくれたから受けてみたんだけど」

「うん。とてもいい学校よ。なんか、進学にも力を入れていて、学校生活も楽しいみたい。それにいい先生も多いみたいだし」

 だよね。まさか、彼氏の勤めてる高校だなんて、口が裂けても言えない。(了)