100日という期間がどれだけあっという間に過ぎ去ったのだろうかと思う。
100日前と今を比べて、
可能になったこと、そしてつくりあげたものを思えば、
確かに積み重なっているものを感じる。
しかし、この100日間というのが、
残り56回ほど与えられているという回数を思えば、
もっと大切にしなければという焦りに近いものを感じる。
少し前までは、
昨日よりも一歩でも前に進めば良いのだと、
そのように考えていたが、
残りの日数を思うと、徐々にそのような考えは、
自分の本心ではないことに気がつきはじめた。
昨日よりも一歩でも前に進むということは、おそらく当たり前だろう。
「進み方」について、考える必要がある。
自らの速度に満足できないのであれば、それを実現する方法を考える必要がある。
進む方法は「歩く」「走る」だけではない。
歩くことしかしてこなかったような人々は、
走る人々を見て「疲れるからゆっくり歩いたほうがいいよ」と言うかもしれない。
走ることに必死だった人々は、
乗り物を使って進む人々を見て「足腰が衰えるから走ったほうがいいよ」と言うかもしれない。
嫉妬や自らの狭量さを「助言」の形で表現する姿が哀れなことに気が付かないのだろうか。
各人が各人にあった進み方を選ぶことができるのだ。
その自由に「助言」は必要ないだろう。
閑話休題。
計画ができているのであれば、
次はその計画をよりよく実現するための戦略を細かく用意していこうと思う。
計画とは「進む先」であり、戦略とは「進み方」のことだ。
戦略をもって、1日1日に明確な色をつけたい。
単に日々を過ごすのでは人生は本当にもったいなさ過ぎる。
日々を生きる方法は既に学んだ。
やるかやらないかだけだ。