参議院文教科学委員会にて質問 | 丸山和也 オフィシャルブログ「みんなで創ろう感動と挑戦」Powered by Ameba

参議院文教科学委員会にて質問

丸山議員は10月16日、参議院文教科学委員会において「日米教育比較に見る自己主張できる能力の必要性に関する件」の質問を行いました。
以下に議事録を載せます。


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第187回国会 文教科学委員会 第2号
平成二十六年十月十六日(木曜日)
   午前十時開会
    ─────────────
   委員の異動
 十月十六日
    辞任         補欠選任
   アントニオ猪木君     中野 正志君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    委員長         水落 敏栄君
    理 事
                石井 浩郎君
                二之湯武史君
                神本美恵子君
                松沢 成文君
    委 員
                赤池 誠章君
                衛藤 晟一君
                橋本 聖子君
                藤井 基之君
                堀内 恒夫君
                丸山 和也君
                斎藤 嘉隆君
                那谷屋正義君
                西村まさみ君
                森本 真治君
                秋野 公造君
                新妻 秀規君
                柴田  巧君
                田村 智子君
              アントニオ猪木君
                中野 正志君
   国務大臣
       文部科学大臣
       国務大臣     下村 博文君
   副大臣
       文部科学副大臣  丹羽 秀樹君
       文部科学副大臣  藤井 基之君
   大臣政務官
       厚生労働大臣政
       務官       橋本  岳君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        美濃部寿彦君
   政府参考人
       内閣官房法曹養
       成制度改革推進
       室長       大塲亮太郎君
       法務大臣官房司
       法法制部長    萩本  修君
       厚生労働大臣官
       房年金管理審議
       官        樽見 英樹君
       厚生労働大臣官
       房審議官     福島 靖正君
       厚生労働大臣官
       房審議官     谷内  繁君
       厚生労働省職業
       安定局雇用開発
       部長       広畑 義久君
       文部科学大臣官
       房長       戸谷 一夫君
       文部科学省初等
       中等教育局長   小松親次郎君
       文部科学省高等
       教育局長     吉田 大輔君
       文部科学省研究
       開発局長     田中  敏君
       文部科学省スポ
       ーツ・青少年局
       長        久保 公人君
       国土交通大臣官
       房技術審議官   坂下 広朗君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○政府参考人の出席要求に関する件
○教育、文化、スポーツ、学術及び科学技術に関する調査
 (日米教育比較に見る自己主張できる能力の必要性に関する件)
 (学校現場における教員の負担軽減に向けた取組に関する件)
 (国立霞ケ丘競技場の改築計画に関する件)
 (新たな高等学校等就学支援金制度の問題点に関する件)
 (総合型地域スポーツクラブの支援の在り方に関する件)
 (中学校における武道必修化の成果と課題に関する件)
 (貧困の連鎖を防ぐためのスクールソーシャルワーカー及び教育支援の重要性に関する件)
 (防災のための火山研究の充実強化に関する件)
 (東京オリンピック競技大会におけるゴルフ競技場選定の在り方に関する件)
 (東北地方における医学部新設問題に関する件)
    ─────────────
○委員長(水落敏栄君) ただいまから文教科学委員会を開会いたします。
 政府参考人の出席要求に関する件についてお諮りをいたします。
 教育、文化、スポーツ、学術及び科学技術に関する調査のため、本日の委員会に、理事会協議のとおり、内閣官房法曹養成制度改革推進室長大塲亮太郎君外十一名を政府参考人として出席を求め、その説明を聴取することに御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(水落敏栄君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。
    ─────────────
○委員長(水落敏栄君) 教育、文化、スポーツ、学術及び科学技術に関する調査を議題とし、質疑を行います。
 質疑のある方は順次御発言願います。
○丸山和也君 久々に質問させていただくことになりまして、大変緊張しておりますけれども、よろしくお願いします。
 日本の教育というのは、非常にやっぱり教育は人づくり、国づくりの基礎でありまして、とりわけ国際化の中ででも日本の教育の在り方によって国際競争力といいますか日本のプレゼンスというのも決まってくると思うんですね。そういう意味で、そういう観点から、分かりやすい意味で少し小学校レベルの教科書で日本とアメリカでどういう違いがあるか、あるいはポイントが置かれているかということをちょっと質問させていただきたいと思うんです。
 教科書の比較は、ちょっと資料の関係でやや古いんですが、二十年ぐらい前の比較なんですけれども、基本的にそんなに変わっていないように思いましたので引用させてもらいました。
 そして、なぜ私がここを取り上げたかというと、一部資料にも言っていると思うんですけれども、いわゆる、例えばアメリカ、欧米を中心にしたアメリカにおいては、強い個人をつくると。それで、強い個性を確立させて強い個人をつくることによって、強い社会ができて強い国家ができて、国際競争の中で存在していくと、こういう発想といいますか理念があると思うんですね。ところが、日本の場合というのはどちらかというと、やっぱり他人に対する思いやり、優しさ、これが圧倒的に強くて、自己主張とか個人の確立ということは余り言葉においても教科書においても取り上げられていないというふうに、私、気がするんですね。
 ですから、グローバル人材の育成とかいろいろなことを言っていますけれども、やや少し深めて議論をしたいと思いまして、教科書の「ニックの仲間入り」というのを出しているんですけれども、これが向こうの小学校二年生の教科書に取り上げられている。国語の教科書なんですね、道徳とかそういうんじゃなくて、一般の一つの事例なんですけれども。足が不自由なニックが明日から学校に行くと。いろいろ心配していると。そして、学校に行くとクラスメートからいろんな質問をされると。また、先生がそれをクラスメートに対してどんどん質問していいか、ニックもオーケーと、じゃもうみんなに質問をさせる。何でそんな足がびっこなんだ、いつからなんだとか、どんどん質問をされると。それで、生徒の好奇心が十分満足いった段階で、それを、じゃ終わりということで、こういうストーリーが展開しているんですね。
 これを見まして、やっぱり日本だと、障害のある子供にほかの生徒からみんな、何でそんな、例えばびっこなんだとか、びっこという言葉がどうかは分かりませんけれども、障害があるんだとか、いつからなんだとか、どういう状況なんだとか、ぼんぼんぼんぼん直接質問をさせるという状況は余りないと思うんですね。むしろそれを抑えるというか、気配りをしてそういうことは聞かない方にむしろ重点が置かれると思うんですけれども。
 ここの部分はある程度大事でして、特に学校に行く前にニックが両親に、学校に行ったらどうなんだろうということをいろいろ両親に質問しているんですね。ここの子供と両親の質問ということがどういう意味があるかということは、つまり、子供であっても単に親に対して甘えじゃなくて、子供、親という人間関係を気にしながら質問しているということは、やっぱりどんどんどんどん親に自分が質問するということに対して、まあ一方的に質問するわけですから、相手に対しても甘えがなくて、いわゆる気遣っているというんですね。子供でありながら親を気遣いながら、遠慮というんじゃなくて、相手を認めて質問しているという、こういう非常に大人の関係がここでもう成立しているということと。
 それから、学校に行っては、やっぱりそういう質問をどんどんさせる、あるいはしたということで、ニックもそれに対して堂々といろいろ答えると。そして、それが終わった後、ボール投げをしたときに、ニックが引っかかったボールを棒で落としてやると、ああ、ニック、すごいじゃないか、足が不自由でも大したもんだということで拍手喝采を受けて英雄気分になるというか。
 ですから、これはハンディキャップの例ですけれども、自分の置かれている客観的状況を鋭くやっぱり認識させているんですね。そして、そういうハンディがあっても優れた点があるじゃないかということをみんなで評価する、たたえ合うという、こういう風潮なんですよね。
 これが、どこがいいかというと、やっぱりどんなにつらい状況があっても、そこから事実として逃げないでそれをしっかりする、認識すると、そこから強い個人ができてくるんだと、そしてそういう個人の特性、特徴があればみんなでそれを褒めたたえると、こういう強い人間でオープンな環境、環境といいますか、教育の過程を描いているんだと僕は思うんですね。これは筆者、今井さんという筆者ですけれども、日本ではこういうことは恐らく取り上げられないだろうと言っているんですね。
 それで、これも一例ですけれども、同じ資料二の、二ページ目ですけれども、日米教科書の内容の比較を若干やってみました。統計が出ています。
 それで、ナンバー一の方の強い個人というところですけれども、この中にいろいろ、上がアメリカの教科書、括弧の中が日本の教科書で、そういうポイントが指摘されている部分が何か所あるかという個数の比較なんですけれども、例えば自己主張というのに関してはアメリカなんか七か所あると、日本はゼロと。自立心、独立心、向こうの教科書は七、日本はゼロと。それから、強い意志、向こうは十五、日本は一と、こういうふうになる。だから、強い個人という観点からだけ総計すると、アメリカの小学校の教科書では五十三か所に出てくると、強い個人というのはね。日本では七か所。
 それから、ナンバー二の方を見ますと、創造性と個性というところがあるんですけれども、その内訳のチャレンジ精神というのを見ますと、向こうでは十四か所出てくると、日本では一か所。それから、一番下の人間関係、温かい人間関係というのは、向こうでもやっぱり人間関係の温かさということは決して価値のないものじゃなくて二十三か所出てくると。でも、日本の場合は、その約倍以上の五十四か所に出てくる。それで、向こうでもう一つ大事なのは、人間関係で緊張感のある人間関係というのが二十四か所出てくる。これは日本はゼロと。それから、一番下の優しさ、相手の気持ちになって考えるというか、ここが向こうでは二か所だけど日本は十六か所ある。それから、自己犠牲の精神、向こうはゼロ、それで日本の場合は八か所あると。
 こういう大ざっぱな比較をしてみますと、やっぱり強い自己主張をするということに対しては余り積極的に評価がされていないと、日本の教科書の中では。それよりも、他人に対する思いやりとか、あるいは自己犠牲の方が非常に大きなウエートを占めていると。つまり、自己主張を抑え自己犠牲を勧めると、やや単純に言いますと、そういう考え方といいますか、そういうのがあるように私は思われるんですね。
 これはこれで一つの価値観でもあるし、一概に何とも言えないんですけど、やはり自己を主張するということの中に自分の確立というのができてきますし、それから他者に対する、他者の存在を認めるということも、そして結果的にはいろんな共存共栄、競争していく中での強い個人というのができてくると思うんですね。こういう意味で、私は日本の特に低学年の教育においては自己の主張、自己の確立ということをもっともっと強調していいんじゃないかと思うんです。
 そういう観点から、教科書の指導要領というのを見てみました。これ、文科省からいただいた資料なんですけど、昨日いただいたんですけど、教育課程を取り巻く現状と今後の学習指導要領改訂に向けた論点という、まさに論点として捉えているんですけどね。
 その中で、学習指導要領の理念として、中心に最近非常に重きを置かれている生きる力と、こういう言葉、恐らく大臣のあれにもあったんじゃないかと思いますし、生きる力ということが盛んに強調されている。生きる力とは何か、非常にある意味で哲学的なんですよ、これね。それで、生きる力を構成するものとして三つ掲げている。確かな学力、豊かな心、健やかな体と、こういうふうに書いているんですね。
 でも、この確かな学力というところで何を文科省が指導要領として言わんとしているか。基礎、基本を確実に身に付け、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質、能力。これ、立派なことを書いているんですよ。主体的に判断し、問題を解決する資質や能力を高めていくと、これが確かな学力だと言っているんですね。でも、これはまあ間違いじゃないんだけど、よく考えると非常に自己完結型なんですね。他人を余り前提にしない自己完結型の目標なんですよ。そして、これ、豊かな心というところに、どういうことかというと、自らを律し、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心、これを非常に強調している、独立した項目として。あとは、体力ですね、健やかな体と。つまり、自分が主体的に判断し行動する人間になるということと、自分を律し、協調し、他人を思いやると、これが二つの車輪の軸のようになっているんですね。
 これは、大きく言うと、やや欠けているものは、他人の存在、他人とどう競合するかという観点がやっぱりほとんどないんですよ。自己完結型の人間形成、そこで他人との関係は他人の思いやりというこっちに来ているんですね。他人との競争、まあ言葉はいわゆる他人との戦いとか競合、競争するとか、そこら辺の観点がほとんどない。
 すると、やっぱり二十年前のこの教科書の比較とそう変わっていない。やはり僕は、日本の教育においては、自分の主張、そして他人とのディベートというか、他人と比較して自分はどこが個性があるのか、どう違うのか、どう優れているのか、いや、あるいはどこが自分は劣っているのか、こういうことを比較の過程で、単に協調とか思いやりではなくて、むしろ比較をすることではっきりと自己を確立させていくという、ここの観点が学習指導要領の中でも非常に弱いと私は思っているんですね。
 そうすると、大人になって国際社会へ出ていって、ビジネスにしろ、いろんなある意味個人の付き合いにしろ、やっぱり他人と協調したり、戦ったり、いろんなことがありますよ。その中で、圧倒的な個人のそういう、まあ言葉がちょっとあれだけど、闘争力というとちょっとややけんかみたいなんだけど、そういう競合してやり合っていく力が弱いんですよ、日本というのは。また、そういう性向、傾向、そういう性向が極めて弱い。
 ということは、基本的に自己主張しない、抑制がち。グローバルな社会では、自己主張をしないということは自己がないとみなされる。極端に言えばばかだとみなされる、に近いこともよくあるんです。そういう点は、なかなか小さいときからトレーニングし教育の中で自然に身に付けないと、いきなり、では国際社会でやり合っていきなさいといってもできないんですよ。これは後で言いますけど、法曹の世界においてもそう。
 だから、私は、日本のすばらしい道徳も、非常にすばらしいんですけど、やっぱり世界の国はどんどん、西洋だけじゃなく中国も含めて自己主張型ですよ。強い自己主張をしてくるので、そういう中で対応していくには、もっともっと日本人の小さいときからの自己主張の力を付けていくという、こういう点を是非指導要領の中でも取り入れていただきたいと思っているんですけれども、こういう点についてどのようにお考えでしょうか、まず文科大臣、お願いします。
○国務大臣(下村博文君) まず、丸山委員には、委員長のときには大変、一年間お世話になりました。感謝申し上げたいと思います。
 そして、先日、丸山委員がどこかで講演されたことを議事録で配付をされているということで、私の手元にも参りまして、日本人の気概、どう確立するかということで、大変すばらしい講演議事録を私も読ませていただきまして、感激をいたしました。
 今のお話は、御指摘の点は、共感する部分とそれから必ずしも、そうおっしゃっているわけではないんですが、アメリカや西洋的な考え方の方が、あるいは教育の仕方の方がはるかにすばらしいということでもないとは思うんですけれども、しかし、そういう要素も取り入れなければならないということだというふうには思いますが、私は、これから人類が共生、調和の社会で生き抜くためには、逆に日本人のような考え方というのはますます世界の中で逆に広めていかなきゃいけないと、そういうふうに思うわけでありまして、競争、闘争、戦いの中に人類の未来はあるのかという限界が今いろんなところで出ているのではないかというふうに思います。
 しかし、だからといって、委員がおっしゃるとおり、ただ思いやりとか優しさとか慈しみとか謙虚さとかいうことだけで何も発信しなかったら、それは全く存在そのものが他者から認識されないということでありますから、そういう心根の本来日本が培ってきたすばらしい部分は生かしながらも、学習指導要領においては、今後、これは日本だけの問題ではなくて近代工業化社会の中の学校制度の中では、一方的に教師が生徒に教えるという講義形式で、生徒、学生はインプットする、暗記、記憶を中心にただ受け入れているというような授業の仕方で、本当にアイデンティティーの人材育成ができるのか、あるいは、世界で伍して対等に議論したり仕事したり論争したりするような人材育成ができるのかということではこれはできないというふうに思いますし、こういう日本の本来のものを生かしながら学校の授業の中でも自ら主体的に学ぶ、そのためにディベート力とかコミュニケーション能力とか、それから道徳についても、この四月から「私たちの道徳」という教材を導入していますが、かつての道徳のように教師が一方的にこの道徳のこの物語はこういうふうに読み込むべきだ、こういうふうに解釈すべきだというような指導書ではなくて、このアメリカの事例にもありましたが、この物語を読んで実際にディベートしてもらいながら、それぞれ子供たちがどういう感覚で捉えて、一つだけこれだけが正しいということはないわけで、いろんな見方によって道徳についても価値観が多様化の見方というのはやっぱりあるわけです。そういう、それぞれが主体的に議論に道徳の時間も関わることによって、自ら考える力とか自ら生きる力とかいうことを育むという意味では、学習指導要領も、同じ例えば国語であっても中身をどう変えていくかと、授業の仕方を含めてですね、ということはもう問われてくると思います。
 そもそも、その象徴が大学入学試験だというふうに思います。大学入学試験で今おっしゃったようなことも含めて問われているのかというと、全く問われていないわけですね、暗記、記憶中心の学力の判断と。しかし、それが本当に二十一世紀の社会で必要な全ての能力なのかというと、ごく一部しかないということで、抜本的な大学入学試験を変えていくということは、当然高校以下の学習指導要領も変えていくということで、今、高校以下の学習指導要領をその中身まで含めて、それから新たな教科まで含めてどう変えるかということについて検討しておりまして、それをできるだけこの秋には中央教育審議会に諮問をしていこうと考えております。
 二十一世紀、あるべき日本における人材育成は何なのかという意味で、本質的な問題提起が今も問われたと思いますが、それは我が国そのものに今問われていると思いますので、抜本的な学習指導要領の改訂を是非進めていきたいと考えております。
○丸山和也君 ありがとうございます。
 それで、一点追加しますけど、この生きる力という点で、文科省の方でも反省をしているんですね。生きる力を育むという理念はますます重要な一方で、必ずしも十分に実現できなかった要因として次のようなことがあるとして、生きる力の意味や必要性について文科省による趣旨の周知徹底が必ずしも十分ではなく、十分な共通理解がなされなかったと、こういう反省をされているんですけど、やはりこれは今も私が述べたような意味でも課題として残っていますので、生きる力を一つの大きな旗印とするのであれば、この生きる力というのは、ある意味で非常に深い概念だと思うんですね、今、大臣もおっしゃいましたように。そこに私流に言えば、やや他人と、単に優しくするんじゃなくて、共存し競争し、その中で相手の良さも見付けるけれども、やっぱり生き残っていく力という、そういう、やや他者との競争、競争というか、まあ所詮競争ですから、そういう観点も少し入れていただいたら有り難いと思います。
 この点についてはそれだけにしまして、時間の関係で、次に法曹養成、これも文科省のあれなんですけれども、について少しお聞きしたいと思います。
 昨今、ロースクールができ、また司法試験合格者も増えながら、またそのロースクールの維持の困難さ、あるいは志願者の減少、就職難等の関係で、ややそれが見直されている過渡期に入っていることは間違いありません。ただ、いわゆるグローバル化の中で、人も経済もあるいは国と国との関係も非常にリーガルな側面というのが重要視されてきているんですね。それで、国内だけじゃなくて、法曹というのも、社会的な中で日本の法曹をどう養成していくかということが課題になると思っています。
 例えば、世界の十大ローファームというのは、ほとんどイギリスとアメリカでもう五分五分ぐらいですね、数から言いますと。それで、大体上が四千人、一つの法律事務所といいますかローファームで約四千人強、それから下が二千人ぐらいの、二千人から四千人ぐらいの十大ローファームがありますね。これはもうほとんど今のところはアメリカとイギリスで全部独占しています。もしかすると新しい発表で、中国の法律事務所が非常に買収をいろいろやっていまして急拡大をしているけれども、もしかすると、一番最新の発表が今年行われるとすれば、その中国の法律事務所が世界一になるかも分かりません。中国では毎年、司法試験合格者を数万人、四、五万人と聞いていますけど、四、五万人の司法試験合格者、中国版はあるということですから、それだけすごい勢いで数が増えているということですが。
 片や、日本の場合、十大法律事務所というのは約、規模的に言うと、十分の一です、まあ四、五百人、五百人超えたかな、五百人弱ぐらいが一番大きい事務所で、あと二百人から五百人の間が十事務所ぐらいあると。約十分の一のサイズなんですね。
 ところが、今、経済のシフトというのが非常にアジアに重点が来だしまして、アメリカ、イギリスのローファームもどんどんどんどんアジアにシフトしています。だから、逆に言うと日本も、そのリーガルサービスの必要性、日本企業、日本法人、いろんなものに対するアドバイスの提供、いろんな仕事が増えてくる傾向にあります。
 ただ、残念ながら、日本の法曹がなかなか追い付いていかないと。結構伸びているんですけれども、国際法務ということになるとなかなか難しいといいますか、そこら辺が法曹人口、私も党の司法制度調査会の会長としていろいろやりまして、一旦は法曹人口千五百人程度に三年ぐらい掛けて減少せざるを得ないという答申を出したんですけれども、これが理想ではなくて、一旦ロースクールの問題もありますから絞りますけれども、やはり国際化の時代へ向けて再び力強い法曹養成をしていかなきゃならないと、質量共にと思っているんですね。そういう意味で、この法曹養成の問題というのは非常に大事だということと。
 それから、もう一つ大事なのは、これ、一九八〇年頃にレーガン大統領が強いアメリカの復権といって打ち出したんですね。あの頃、高度成長の頃は、日本がどんどんいい物は作る、価格は安い、サービスはいいということで、アメリカは製品に関しては、物づくり、その価格、品質、サービスに関しては日本に勝てないということで、あの頃はエズラ・ヴォーゲルさんかな、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本が出たというようなこともありまして、日本がもう日の出の勢いだと、アメリカは非常に恐怖を抱いていたんですね。産業競争力において負けると、日本に勝てないんじゃないかと焦っていた時期でした。
 そのときにアメリカが一つ発見したのは、日本の圧倒的に弱いのは製品とか価格とかサービスじゃない、リーガル紛争だと。だからリーガル紛争、要するに訴訟ですね、訴訟を、まあ吹っかければという言葉に等しいんですけれども、訴訟を仕掛ければ日本は圧倒的に弱いと。まず経験がない、訴訟を嫌がると。それから、何というか、熟練をした弁護士もいないと、そういうことですね。争いを嫌うという日本、だから訴訟をやれば必ず勝つというような何か自信をアメリカが持って、どんどんどんどん東芝、日立やもういろんな、IBMやいろんな訴訟が提起されて、莫大な賠償金というか、いろんなあれを払ってきたと思うんですね。これらも、やっぱりリーガルの側面の弱さがこういう、結局産業競争力の弱さということで、最終的なせっかく日本が生み出す価値が日本に帰属しないと、あるいは不当に持っていかれるという、国際競争の中で負けてしまうということになるんですね。
 それで、これは単にリーガルな面だけじゃなくて、やっぱり日本において、国内においても、あるいは特に海外でもいいです、そういう訴訟をする、自己を主張し正々と堂々と闘うというマインドがやはり弱いんですよ。余りやらない。いい意味では仲よくしようと。ところが、それは相手にとれば弱みだというふうに映るわけですね、チャンスだと。ここらはやはり一気に、そういう強いあるいはディベートできる企業、社員、それから弁護士をつくろうといっても、やっぱり小さいときからのそういう教育によって、そういうことを是とする、あるいはそういうことの能力を持った人材を育てていかないと、企業の中にも、あるいはそれがまた弁護士にも、そうなっていかないと、国際リーガル紛争なんてなると、もう専担ですから、人材がいないんですよ、日本で。はっきり言って勝てないんだ。みすみす莫大な不当な金額を払ってきたのは幾らでも例がある。それで、司法の場ですから、やっぱり判決が下りれば、それは従わなきゃならない。それがジャスティスになりますから。
 そういう意味で、国際リーガル紛争に勝ち残っていくためにも、やはり根底はそういう小さいときからのディベート能力とか自己を主張するとか、堂々と主張する、こういう能力を質量共に高めていく必要があると思っているんですけれども、そういう意味で教育ともこれはつながると思うんですけれども、初等中等教育局長、いかがでしょうか。
○政府参考人(小松親次郎君) 先ほど来の御質問の中で、まず司法の専門的な職業、特に国際的な活躍というものの下に、自らの意見を堂々と主張し、それから相手の意見とそれを併せて建設的にやっていくという、そういう積極面の教育がもっと必要ではないかという御主張がございますけれども、これが特に最も典型的に出るのが法廷等を舞台といたします法曹ということだと思います。
 文部科学省、高等教育の部分ではプロセス養成ということで、丸山委員なども御尽力いただいております司法制度改革に教育としても関わっておりますけれども、一つは、特に小中高というようなところで申しますと、高等学校等においては政治経済や倫理やそういったものの内容の中でそういうものに触れさせておりますけれども、それよりもう少し下、小学校、中学校ぐらいになりますと、実は今の教科書においてはかなりディベートとか、それからそれには手順があって、相手の言うことを尊重しながら、しかしこちらは主張しなければいけない、そこからどういうものが出てくるかということを考えさせるような教科書に変えつつございます。今の学習指導要領でも、道徳ではなくて、例えば先ほど御指摘の国語のような教科書の中でも、学級会のような場を使って一つのテーマを設定して賛否を争わせるというようなことが教科書等としても出てきております。
 こういった点で、関連付けを頭に置きながら、社会との接触や社会参加ということを頭に置きながらそちらの方向へ進めてきたというのが現在の学習指導要領の方向でございまして、先ほど大臣から答弁のありました今後の学習指導要領の全面改訂の中でも、そうした言わば能動的な学習、アクティブラーニングと言われますが、そういったものができるように、内容、方法等、それから教育条件の面での整備に努力をしていく必要があるというふうに考えております。
○丸山和也君 ありがとうございます。
 是非、やや強調し過ぎるぐらい、そういうディベートの能力とか、相手の立場を認めてもしかし自己も主張すると、そういうぶつかり合う中から互いを認め合うというのは一番、けんかして仲よくなるという言葉が日本にもありますけれども、やっぱり適当なところでとどめていると、なかなか本当の信頼が生まれないということもあるんですね。だから、国際社会は、やっぱり激しい議論の応酬、ディベートの応酬の上に相手の本当の姿が分かり、自分も主張もでき、そしてお互いを認め合うことで本当の信頼が生まれてくると思うんですね。やはり、日本はそれを事前に抑制する事前抑制型が非常に、日本の特徴なんですけれども、強いものですから、集団主義と合わせて、だからそこが育ちにくいんですよ、そういう能力のある人が。社会環境的にもそうなんですよ。親もそうですし、子供だけでなく、教育だけではできないんですけれども。そういう意味で、やや特に意識的にそういうディベートをする能力を付けるように指導していただきたいと思います。よろしくお願いしておきます。
 それから次に、大臣の所信の中にもあるんですけれども、科学技術イノベーションの推進というところで、今般のノーベル賞、中村修二さん外二名の青色発光ダイオードのうれしいニュースがありました。確かにうれしいんですけれども、これ単純にうれしいといって喜んでいられない側面が本当はあるんですよ。大臣に、これはもう水差すわけでは決してありません。
 この青色発光ダイオードにつきましては、中村さんが日本で二〇〇一年ですか、東京地裁に訴訟を起こしました。要するに、職務発明の正当な対価を求めて訴訟を起こしたんですね。それが二〇〇四年に判決が出たと。最終的に決着して東京高裁で、判決が東京地裁で一月でしたかね、それでその十二月に東京高裁で和解が成立したと。ちょうど、だから十年前になるんですね。だから、このときは、その後、中村さんはカリフォルニア大学サンタバーバラ校へ行くんですけれども、そのときの捨てぜりふと言ったらちょっと悪いんだけれども、最後に残した言葉は、日本の社会は会社も司法も腐っていると、こういうところで未来はないと、研究者の未来もないという有名な言葉を発したんですよ。だから彼が悪いというのじゃないですよ。だから、そこに、その問題点というのを我々は決して忘れてはいけないと。その十年後にノーベル賞を取った。評価されたんですよ。
 それで、一審には、御存じかと思いますけれども、二〇〇四年の一月でしたか、中村さんの請求が二百億円、概算二百億円の請求に対して満額を認めた、二百億円。それで、非常に大きなニュースになりました。それで裁判所の認定は、青色発光ダイオード、四〇四特許と言われているんですけれども、発明による会社の利益、会社が得た利益というのは六百億円だという、彼の貢献度は五〇%だと、だから彼を三百億円請求する権利があるとわざわざ言ったんだね。だけど、弁護士、中村さんが二百億円しか請求していないから二百億円を認めたと。まあ、百億円損しているんですけれどもね。これぐらいの大きな、ある意味でショッキングな影響を与えた判決だったんですね。
 彼の弁護人も私もよく知っていますけれども、それでそのときはよかったんです。日亜科学の方は東京高裁に控訴しました。知財高裁がなかった頃ですね、控訴しました。そして、東京高裁の判事の、これは判決じゃありませんからあれですけれども、伝えられるところによると、結果は六億円と、四〇四特許その他百数十幾つの特許全部を合わせてもうたたき売りみたいなものですね、それで六億円ということで金額的にはまとまったと思います。六百億の六億で百分の一ですよね。ほかの特許も全部合わせているんですから、本当は三百分の一ぐらいの評価になったと思うんですね。
 つまり、彼の特許、争いになったのは貢献度、六百億という会社にもたらした貢献はそんなに争われていなかったんですけれども、中村さんの発明の貢献度をどれだけに見るかというところで、会社側の主張は、要するに彼の個人の功績ではないんだと、これは。確かに発明は一部あったけど、それは発明にすぎないと。それを商品にするためにいろんな努力も要ったし、商品を売るためにはやっぱり営業も必要になるし、そもそも会社がやっていくためには一人の力ではどうもならないんだというこういう、単純に言えばそういう理屈ですよね。それで東京高裁は、そういうみんなの力でこうなっているんだから、あんたの発明だけの価値というのは、まあ恐らく、たしか僕の記憶では数千万円だと言ったと思うんですね、数千万ぐらいのものじゃないかと。だけど、いろんな特許を合わせて六億円と、遅延損害金みたいなのを入れて八億円になりましたけどね。そういう判定だった。
 これを見ましても、非常に面白いというか日本的なんです。これを恐らくアメリカであったら、あるいはヨーロッパであったら、二百億円、高裁へ行ったら恐らく三百億円請求していると思いますね。それで認められる可能性も十分あった。ところが、やっぱり、個人の功績に対する評価というのが日本は非常に素直にしないんですよ。それは、もちろん営業のためにはセールスマンも必要だし、いろんな人要るけど、でも発明というこれがなかったら、この四〇四特許が、発明がなかったら、後ほどノーベル賞をもらうほどのこの発明がなかったら、あり得ないんですから。
 どこに価値を置くかというところで、やっぱり日本は集団主義なんですよね。個人を余り高くは評価しない。それは、一つは妬みもあるんですよ、と私は思うんだ。最高裁長官だって、定年退職したって一億も退職金入らぬでしょう。まあこれは余談ですけれどもね。それをたったこんな、こんなって失礼なんだけど、特許を一つ発明して二百億とはとんでもないという、こういう感覚なんですよね、日本の社会というのは。
 だから、個人が主張する、また個人が評価されるということが非常に難しい国であるということを我々は知って国際競争の中でやる。だから、中村さんは、司法も腐っていると言っていましたけど、会社も、日本の産業界、個人を認めない社会では研究なんかやっていられないということで行っちゃったんですけどね。頭脳流出と言われています。それから帰ってもきません、もちろん。だから、単純にこれが十年後にノーベル賞をもらってめでたいことだと喜んでいられないんですよね。
 こういう問題があるということを我々は考えなきゃいけないし、その後特許法も改正されて、ややそれを制限するような、職務発明に対する対価の事前に取決めをした場合はそれに従うというような内容の、制限する法律改正がなされました。さらに、その後、今も話題になっているんですけど、更にそれを、職務発明そのものが個人の権利じゃなくて会社のものにしてしまったらどうかという議論すら一部出かかっていると聞いています。そうなると、これイノベーション大国、日本はアベノミクスの中で言っています、イノベーションに非常に重要にと。アベノミクスの成否も懸かっている。そういう発想からすると、やはり私は非常に危惧するんですよね。二百億、三百億が正当かどうかは別にして、極端に言えば二百億や三百億、それだけの価値があれば会社は払えばいいじゃないかと私なんかは思うんですけど、だけど、そういうのが司法も含めて抑え込まれてしまったという現実、一側面はあるんですよね。
 だから、やっぱり世界で一番起業しやすい社会とか一番イノベーションの起こりやすい社会をつくっていくんだと、もうスローガンとしてはいいことがいっぱい掲げられているんですけれども、やはりこういう個人の華々しい貢献、これはもうスポーツにしたって、どの分野にしたってみんな一緒ですけれども、だから、やっぱりこれを素直に褒めたたえるというか、そういう気質というか風土をやっぱりつくっていく、これはやっぱり小さいときから、協調だけではできない。橋本先生おられますけど、立派なオリンピックアスリートですけど、やっぱり優れた人に対しては評価していくと、こういう風土をつくっていくことが必要じゃないかと思うんです。
 例えば、オリンピックで金メダル取った人が、金メダルでも銀メダルでもいいんですけど、選手がインタビューで言いますよね。これ、私、国際比較をちょっとしてみたのよ、大ざっぱに。日本の選手の場合は必ず自分がやったとは言わないのね。コーチのおかげ、皆さんのおかげです、家族の励ましのおかげで金メダルが取れましたと言うのよね。おまえは努力していないのかと。でも、それは言わない、一言も言わない、ほとんどの人は言わないですよね。みんな、おかげで、おかげで、おかげさまで取れましたと。まあ、頭が非常に低姿勢なの。外国の選手は、私はこうやってやりましたとか、自分の能力を誇示するような選手が多い。これもやっぱり自己主張をすることに対する後ろめたさというか、それをプレッシャーを掛ける風土があるんですね。
 これは学問書でも出ていますよ。社会科学者がこういう国際比較した、オリンピック選手のコメントをずっと比較したら、日本はもうほとんどいない、私の力でこうやりましたとか、私がこうであったから勝ちましたと言うのはまずいない。そういう教育になっているんですよ、だから。自分がやった、自分の力でやったと言うと、生意気なやつだなとか、おまえだけの力じゃないなと。これはこの青色発光の判決と全く同じなんですよ。
 ここら辺について、私は、やっぱりジャパン・スタンダードも非常に、大臣おっしゃったように、他人を思いやる、バランスの取れた、いいんですけど、ややもう少し自己を主張するというふうにしないと、強い個人というか、それと、それをおおらかにたたえるという風土をつくっていかないと、やっぱり外国人も日本人と一緒にやっていくのに対して非常に閉鎖性を感じちゃう面があるんですよね。そこら辺について、もう時間がなくなってまいりましたので、一言感想をいただきたいと思うんですけど。
○委員長(水落敏栄君) どなたですか。
○丸山和也君 じゃ、高等教育局長。
○政府参考人(吉田大輔君) 今、丸山先生の方から貴重な御意見いただきまして、大変共感をする部分も多うございました。
 私の担当いたします法科大学院の中でも、まさに教育の質的改善というところで、先ほど来ございますけれども、きちっと海外の人とも、協調しながらではございますけれども、論争をし、主張すべきところは主張をするような、そういった強い法曹を育てるべく教育内容の改善に努めておるところでございまして、そういった特色ある教育を行う大学院に対しましては私どもの方もきちんと支援をしてまいりたいと思っております。
○丸山和也君 やはり自己主張をするというのは、ビジネスとか個人の関係だけではなくて、国と国の関係でも非常に大事になってきていると思うんですよ。やっぱり、尖閣諸島の問題、それから歴史教育、それから慰安婦の問題、いろんなことがあります。その中でも、やっぱり反省するところは反省する、しかし、これは違うよと、ここはやっぱり誇りがあると、ここは間違っていないんだと、こういう自分の信念を臆せず堂々と国際社会の中で言っていかないと、黙っていると、やっぱり厚かましい者勝ちというか、吹っかけた方が既成事実になってしまうことがありましてね。だから、これから国と国との関係、あるいは民族と民族との関係でも、対立をあおるわけじゃ決してありませんけれども、共存共栄がもう第一目標なんですけど、それははっきりと主張をしないと信頼関係は生まれないと思うんですよ。
 例えば、戦時徴用判決にしても、もう条約で完全にコンプリートリーに解決済みであるにもかかわらず、そういう認めるような判決が出てくると。これは国際法にも明らかにおかしいということを堂々と主張して、またそういう強制執行に対しては断固として受け付けないという姿勢で、日本政府も言っていると思うんですけれども、やっぱりそういう国と国との関係においても、他民族との関係においても、多少はやっぱり対立して当然なんですよ。対立して当然だけど、対立を恐れないで堂々と主張し、そして胸を張って主張するということで、相手もリスペクトというかそういうもの、あるいは、もうギブアップもするしリスペクトもするということになってくると思うんですね。ここらが、個人だけの問題じゃなくて、国と国と、国民と国民との間でも非常にこれからの社会では大事になってくると思うんですね、自己主張をしていくということが。これは他人をけなすことでも何でもなくて、やっぱり相手に対しても、自分を主張するということは、相手もこちらに対して主張する、その中で正しいことを認め付き合っていくという、こういうことになっていくと思うんですね。
 だから、日本、もう最後に文部大臣にお聞きしますけれども、そういう姿勢が大事なんじゃないかと、私は国と国との関係においても思っているんですけれども、いかがでしょうか。
○国務大臣(下村博文君) さっきのスポーツ選手のコメントについては、これは日本人の美意識という部分にどう共感するかどうかという問題があるので、ちょっと違うところがあるんですが、しかし、政府や我々政治家がきちっと主張するべきというのはおっしゃるとおりだと思います。
 実は今日も、アメリカのあるメディアが、日本の教育はグローバル教育をする一方で愛国教育をしていて矛盾しているんじゃないかという批判があったものですから、これは私の方がその反論記事で、日本人としてのアイデンティティー、これをきちっとつくりながら真のグローバル人材を育成するという意味で、別に愛国教育をしているわけじゃなくてアイデンティティー教育ですから、そういう誤解を、海外のメディアに対しても投稿しようと、そういうことも含めて、積極的に日本政府は発信すべきという、正すことは正すと、おっしゃるとおりだと思いますし、やっていきたいと思います。
○丸山和也君 質問を終わります。

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参議院文教科学委員会

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質疑に立つ丸山和也議員

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答弁に立つ下村博文文部科学大臣