『受験必要論~人生の基礎は受験で作り得る』


「今でしょ」で有名な東進ハイスクールの林先生の本です。インタビュー形式になっており、林先生の受験勉強観が、ご自身の体験談も混じえながら述べられています。

林先生の考えは、受験が「絶対」というわけではなく、受験勉強に励むことで、将来、社会に出て必要な力が身につくという考えです。

全員が受験で勝つ必要はない。それぞれが自身の個性を生かして、芸術の分野やスポーツの世界など、それぞれの道で勝負できるなら、それに越したことはない。しかし、将来の夢や目標が見つからない若者たちにとって、受験勉強は人間として必要な「考える力」を養うための基礎作りになり、自身の可能性を広げていけると、言われています。

その上で、今の日本の受験のあり方や大学のあり方などについて論じられています。


私自身も、最近、受験のあり方について考えることがあります。

自分は高校時代は受験勉強を頑張り、第一志望の大学に合格できましたが、大学に入ってからは目標が見つからず、ふらふらとした時期が続きました。しかし、高校時代の受験勉強は、決して無駄ではなかったと感じています。学生時代に努力したことが、今の「考える力」の基礎になっていることは、林先生の主張のとおり、自身も実感するところです。


しかし一方、今、一人の息子の父親として、息子の将来の幸せや成功を願う時に、自分が歩んできたように今の日本の教育環境や受験競争という世界にどっぷり身を投じてほしいかというと、自信をもってそうは思えません。それについては今後も子育てしながら考えていきたいと思います。

まずは、子供には、受験をする以前に、林先生が言うように、分からないという壁にぶち当たる機会を沢山作ってあげて、その度に、突き詰めて考えることの重要性を教えてあげることが大切であると感じます。その延長線上に受験があるのだと思います。


以下、備忘録です。



▶︎この社会において、全員が学校の勉強をできるようになる必要はありません。しかし、誰もが豊かな「考える力」を持つべきです。なぜなら、社会に出てからも、ときには答えのないような「問題」まで解いて、物事を「解決」し、「創造」していかねばならないからです。その際に、「考える力」は不可欠です。

受験勉強の際には、必ず「わからない」問題にぶち当たります。そこでの「わからないなあ、どうやったらわかるのかなあ」と必死に考える時間こそが、本当に尊いのです。そうやって若者は「考える力」を高めていくものなのです。



ーー今の受験制度で、他に改善を要するとお考えの部分はありますか?

▶︎日本史を必修にすべきだと思っています。日本人を見ていると、先進国で大学に行くような知的水準の人で自国の歴史をこんなに知らない民族っているのかなと思います。

▶︎自国の歴史をちゃんと知らないようでは、愛国心もプライドも持てない。こういうことを言うと、右傾化だという非難が出てきかねないのですが、そうではなく、ひとりの人間が自信を持って生きていく土台として自国の歴史を深く理解すべきだ、という話です。

▶︎もちろん『日本は全部素晴らしい国だ。神の国だ』などというばかげた内容ではなく、過去には過ちもあったということもきちんと伝えながら、正しい歴史認識を育んでいくことが大切なのではないでしょうか。



ゆとり教育にするくらいなら、むしろ詰め込み教育のほうがマシ

▶︎詰め込み教育で問題があるとすれば、むしろ詰め込まないことではないでしょうか。人間の頭はパソコンと違って容量的なパンクを起こさないので、入れてしまえばいいと思うんです。まず、壊れないと思いますよ。どこまで詰め込めるか、やれるまでやったらいいんです。ただし、入らないことに対してのペナルティーはゆるやかにすべきです。頭に入りづらい人に『おまえ、入ってないからダメだぞ』というのは、絶対にダメ。しかし、入る人には無制限にどんどん入れていけばいい。知識があって困ることは、まずないと思います。

▶︎人間の頭を鍛えるためには、わからないことを抱え続けていくということが大事なんです。ゆとり教育がそういうものを考え続けさせるための余裕を与えるものとして機能していればよかったんですけど、そうはならなかった。単に中身を希薄にしてしまったというのが実感です。

わかりにくいものを読ませ、自分で考えさせて放っておくというのは、ものすごく硬いするめを与えるような教育なんです。全然飲み込めないするめがありますよね。でも、ずーっと噛んでいるとだんだんふやけてきて、最後には食べられる。そして食べるためにクチャクチャやることがアゴを鍛えたわけです。ところが今は、口どけのいいなめらかなプリンのようなものばかりを渡すんです。楽に、ツルッと体内に入っていく。しかし、それではアゴの筋肉は鍛えられない。勉強も同じことです。だから、僕は『わからない時間が尊いんだよ』と言い続けてきたんです。


ーーゆとり教育を文科省が推進した理由には、過酷な競争をなくすということがありました。では、競争自体は善と考えていますか?

▶︎学校現場の人は競争とか勝ち負けを嫌うようですが、現実は悲しいほど競争と勝ち負けでできているのではないでしょうか。

▶︎自然界の基本システムとして生存競争、自然淘汰、適者生存、この3段階は明確にあるんです。

この原理から人間だけ逸脱しようとするのはなかなか難しいと思います。

競争が、勝ち負けがあることを認めたうえで、勝者が敗者に対して手を差し伸べることが大切なんだ、と教えるべきだと思います。そこが人間と動物の違うところなんです。そして負けたからすべてを否定されるというのも、勝ったから何をやってもいいというのも間違いだということも教えるべきだと思います。



ーー受験勉強は何を身につけるためにやるのでしょうか?

▶︎僕は、『創造』『解決』、この2つの能力を高めることに尽きると考えています。社会に出ると、理系の場合は特に、いかに新しいものを作り出していけるかという『創造』力が必要です。一方、文系では社会で起きている問題を『解決』する力が求められる場合が多いでしょう(もちろん、文・理ともに両方の要素を求められますが)。受験というのは、それを鍛える基礎練習になる部分が大きいと考えています。

社会に出ると、受験とは違って、答えが1つかどうか、いやそれ以前に答えがあるかどうかもわからない『問題』を解かねばなりません。それでも、受験という答えのある問題を解く練習をする中で、答えのない問題を解ける基礎ができる部分もあるのです。


(林先生の幼少期の学習について)

▶︎今思い返してみてよかったのかなと思うことが、読んだだけじゃなくて、山ほど本を書き写していたことです。

小学校の時には、年表を巻物に仕立てたり、部屋中いっぱいに広がるような家系図を作ったり。とにかく歴史関係の資料を読みあさって書き写し、それを自分でまとめるというようなこともしていました。

2くらいからコピーが普及し始めたんですが、まだ珍しかったうえに料金も高くて、お小遣いの乏しい小・中学生には厳しかったんです。だから、その頃はみんなが図書館で資料を書き写していました。今みたいにウィキペディアをプリントアウトして終わりの時代ではなかったんです。でも、それがむしろよかったと思うんですよ。

今だったら僕だってコピーして終わりにしてしまうでしょうが、やはりコピーをしただけなのと、手を動かして書き写したのとではとんでもない差があるんです。脳への刻まれ方が違います。ついでに、難しい字も書けるようになりましたし。