「緩和ケアの闇」の記事を読んで頂いている読者の皆さんの中には、なぜ唐突に「遺伝子決定論」なるおかしな話題が出て来たのかと訝る方も居られるかも知れません。 実は、現在のがん細胞の理解が「遺伝子決定論」の亞型ではないかと思うからです。今回は、何時もの緩和ケアの深刻で暗い話から離れて、頭の体操のつもりで気楽に読んで頂ければと思います。



遺伝子とは一体何者か?

 今日では、 DNAという単語が普通の会話の中にまで登場し、私達の身体的特徴や性格、能力までもが DNA に支配され、遂にはその社会的地位や富、人生の成功・失敗まで決定しているかの様に言い囃されています。これでは、私達自身には人生を開拓していく自由など存在しないと言わんばかりです。実際、半世紀前の1970年代には、生物は遺伝子の操り人形に過ぎないとする、「利己的遺伝子仮説」なる稚拙な理論がマスメディアで持て囃され一世を風靡していました。『利己的な遺伝子』 を書いたリチャード・ドーキンスは、一躍時代の寵児となり、その中で「我々は生存機械-------遺伝子という名の利己的な分子を保存すべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ」 と宣言したのです。そして「成功した遺伝子に期待される特質のうちで最も重要なのは無情な利己主義である」として、「普遍的な愛とか種全体の繁栄とかいうものは、進化的には意味をなさない概念にすぎない」との託宣を、科学の名のもとに下したのです(『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス著)。

 しかし、現実はそれほど単純なのでしょうか。確かに一卵性双生児を見るとそっくりですし、性格や関心も似ている様です。一卵性双生児は、原則として同一の DNA セット・遺伝情報を持っている訳で、この類似が遺伝による事には議論の余地は有りません。ところが、この遺伝情報の本体と考えられているヒトの遺伝子は、わずか 2万個程度に過ぎない事が明らかになっているのです。実は、ヒトの DNA 配列が明らかになる以前は、遺伝子は 8~15万個程度は有ると考えられていたのですが、ヒトゲノム計画でDNA 配列の解明が進むと推定遺伝子数はどんどんと減少し、現在では約 2万個程度にまで減ってしまった訳です。しかし、これは実に驚くべき事です。一卵性双生児の顔形・身体的特徴・性格までもが、わずか 2万個ばかりの遺伝子で決定されている事になり兼ねないからです。 

 さらに驚くべき事は、この 2万個と言うヒトの遺伝子数が、線虫の1万9735個とほとんど変わらないと言う点です。線虫というのはモデル生物としてよく利用される、土壌中に大量に生息する体長約 1 mm、体細胞数はわずか 1000個程度の線形動物です。ヒトの細胞数は約 37兆個と言われますので、線虫の370億倍も有るにも拘わらず、遺伝子数はほとんど変わらないのです。このように生物としての複雑さに桁違いの差が有るにも拘わらず、両者の遺伝子数がほぼ同じと言う事は、生物の複雑さと遺伝子数には相関関係が無い、あるいは多細胞生物の進化において遺伝子自体がそれほど重要では無いという驚愕すべき事実を示唆しています。しかも下の表に見る様に、32億塩基対のヒト DNA の内、タンパク質をコードする遺伝子の占める割合はわずか 1.2%に過ぎないのです。言い換えれば、DNA の 98%はどんな機能を持っているのか、我々はまだよく知らないのです。 このような非コード配列は、かっては「ジャンク DNA 」と呼ばれ、機能のないガラクタ配列と考えられた時期もありました。しかし、DNA の 98%が意味のない配列などという事は有り得ないでしょう。

表1)配列決定された代表的ゲノム

(『新大学生物学の教科書③』D.サダヴァ他著より抜粋)

 しかし、この程度で驚いてはいけません。実は、ヒトのゲノムには約 10万ものレトロウイルスゲノムに由来する DNA が組み込まれており、それがゲノム全体の 5~ 8%にも及ぶと言うのです。つまり私たちの染色体の中には、本来の遺伝子の約 5倍もの、よそ者の訳の分からないレトロウイルスの遺伝子が紛れ込んでいる事になります。これでは私達が日頃から崇め奉っている遺伝子とは、一体何者なのかと言う事になってしまいます。

 さらに驚くべき事には、真核生物のゲノムにはタンパク質をコードしない多数の反復 DNA 配列が存在するのですが、その中のトランスポゾン(転移配列)と呼ばれる配列だけで、ヒトゲノムの 40%以上を占めると言うのです。トランスポゾンは数百~数千塩基対の配列で、ゲノムから自らを切り出して他の場所に転移したり、自己を複製して他の場所にコピーを挿入したり出来る配列です。時には、近くの遺伝子を一緒に複製したり転移させる場合もあります。こうなれば真核生物ゲノム内の遺伝子をかき混ぜて、遺伝的変動の創出に貢献している事になりますが、一方でその不正確な切り出しや挿入は、遺伝子を傷つける事にもなっています。

 私達の大事な大事な遺伝子がわずか 1.2%しかないの対して、ゲノム中を勝手にあちこち動き回り、遺伝子を破壊する恐れのある機能の不明な配列が 40%以上も存在している訳です。またゲノムには、遺伝子の機能を失った偽遺伝子の配列も多数存在しています。トランスポゾンも含めると、ゲノムの 90%以上は何をしているのか良く分からない配列なのです。私達の DNA は、訳の分からない意味不明な配列で埋め尽くされた、魑魅魍魎の世界となっているのです。 



生命活性分子のタンパク質 

  ここで先に進む前に、遺伝子について簡単に復習をしておきましょう。 先に結論を言いますと、分子生物学でいう遺伝子とはタンパク質をコードした DNA 配列になります。タンパク質は 20種類のアミノ酸が 50個~数万個も鎖の様に数珠繋ぎになった高分子で、遺伝子はそのアミノ酸配列をコードしているのです。 遺伝子と聞くと何か神秘的なものの様に感じますが、実は 1個のタンパク質のアミノ酸配列を記録した設計図に過ぎない訳です。 

 ではなぜ、たった 2万個程度のタンパク質(又はタンパク質のサブユニットのポリペプチド)の設計図で、私たちの身体を作り上げ、日々の生命活動をコントロールする事が可能なのでしょうか。 ここから話は、一気に生命の神秘に切り込んで行きます。その秘密はタンパク質自体に有るのです。タンパク質は、私たちの身体を構成する高分子であると同時に、酵素として体内で起こる多様で複雑な化学反応をコントロールして、生命活動を支えています。つまり、タンパク質なくして生命は有り得ないのです。同時に、タンパク質は細胞の中でしか合成できません。生命なくしてはタンパク質は出来ないのです。ですから、もし宇宙でタンパク質が発見されれば、それ自体が生命の存在の証明になる訳です。山形県のSpiber(スパイバー)株式会社が、世界で初めて開発した人工合成タンパク質素材のブリュード・プロテイン(人工クモの糸)も、設計図の遺伝子を微生物に導入する事で作らせています。

 このように、生命の鍵を握っているタンパク質ですが、その秘密は固有の立体構造を持つ事にあります。タンパク質は 100~5000個のアミノ酸が鎖の様に長く繋がったものですが、細胞内で合成されると直ぐに折り畳まれて、アミノ酸配列に固有の立体構造を形成します。このタンパク質の立体構造は、4段階に分類されています。タンパク質はアミノ酸がペプチド結合で長く繫がったものですが、そのアミノ酸配列が一次構造です。ポリペプチド鎖は合成されると、あちこちで分子内の水素結合により右巻きらせんの「αヘリックス」と、複数のポリペプチド鎖が横に並んだ「βシート」と呼ばれる2種類の空間パターンを形成します。これを二次構造と呼んでいます。次に、αヘリックス・ βシートなどが水素結合・ジスルフィド結合・疎水性相互作用によりさらに折り畳まれ、3次元の立体構造を形成します。これが三次構造です。この立体構造を持つポリペプチド鎖が、複数結合して組み合わされたものが、タンパク質の四次構造になります。

図1)αヘリックス:ブルーの螺旋部分

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図2)βシート:ブルーの矢印部分

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 ここで重要なのは、アミノ酸配列か決まるとタンパク質の立体構造が一義的に決まってしまうという点です。つまり、遺伝子はアミノ酸配列をコードする事で、タンパク質の立体構造を決めている訳です。 そして、この特定の立体構造をもつタンパク質分子が他の分子と相互作用する事で、様々な構造を作り出すと共に、酵素として生化学反応を触媒し制御しているのです。つまり、タンパク質が配列に固有の立体構造を持つ持つ事こそが、生命活性の基盤となっているのです。この立体構造を介した分子間の相互作用の重要性を理解する為に、酵素の反応について見てみましょう。



タンパク質の酵素活性 

 酵素は、生体内の化学反応を触媒して反応速度を上げている分子で、ほとんどがタンパク質です。この酵素には工業で使われる触媒と異なり、基質特異性と反応特異性という目立った特徴を持っています。通常、酵素はただ一つの反応物だけを認識し、それと結合して特異的な産物を生成するのです。細胞内では様々な物質が渾然一体となって存在し、様々な化学反応が同時並行的に進行しています。こうした何百・何千という化学反応を、小さな細胞の中で間違いなく整然と実行できるのは、酵素のこの特徴のお陰なのです。さらに、この酵素の能力が半端ではありません。酵素は反応速度を、100万倍(106倍)から1026倍と驚異的に亢進させているのです。肝臓のカタラーゼという酵素は、毎秒 4000万個もの基質分子の反応を触媒すると言われます。これだけの働きを見ても、タンパク質酵素が無ければ、生命など存在し得ない事が分かると思います。

 では酵素はどのようにして、この様な芸当をやって退けているのでしょうか。その秘密こそ、タンパク質が固有の立体構造を持つ事に有るのです。ほとんどの酵素は数百のアミノ酸からなるたんぱく質で、反応を触媒される基質に比べるとはるかに大きな分子です。この酵素には活性部位と呼ばれる小さな窪みが存在し、基質の分子はそこに鍵と鍵穴のようにピッタリと嵌り込む様になっているのです。酵素に結合した基質分子は、反応に適切な配置を取ると同時に、分子構造が物理的に歪められ、あるいは化学的に修飾される事で反応のエネルギー障壁を低下させ、反応速度を上昇させているのです。また酵素によっては、基質が結合するとその立体構造をわずかに変化させ、触媒効率を上げています。 つまりタンパク質酵素と基質分子が、その立体構造を介して相互作用をする事によって、驚嘆すべき効率の良い触媒反応が可能になっているのです。

 さらに酵素は、その触媒活性を調節制御されています。細胞内の生化学反応は代謝経路の中で行われており、ある反応産物が次の反応の材料となるなど、広範囲に相互作用をしています。したがって、代謝経路を円滑に回転させる為には、個々の酵素の活性を正確に調節する事が不可欠なのです。そして、この制御にも酵素の立体構造の変化が使われています。阻害因子や活性化因子などの調節因子が、酵素の活性部位とは別の部位に結合する事で立体構造を変化させ、酵素活性を調節しているのです(アロステリック効果)。また、酵素の特定のアミノ酸へのリン酸基の付加(リン酸化)でも、立体構造を変化させて活性を調節しています。 

 このように、タンパク質はその立体構造を介した分子間の相互作用によって、複雑に入り組んだ生化学反応のネットワークを形成し、生命そのものの存立を可能にしているのです。タンパク質なしでは生命は有り得ず、タンパク質こそが生命誕生を可能にした生命活性分子なのです。かつて、フリードリヒ・エンゲルスは『自然弁証法』の中で「生命とはタンパク質の存在様式である」。「もしもいつの日かタンパク質を化学的に作り出すことに成功したならば、たとえそれはまだ微弱かつ短命であるとしても、必ずやそれは生命現象を示し、物質代謝を営むことであろう」(『自然弁証法』エンゲルス著)と述べていました。 しかし、21世紀の現在に生きる我々は、タンパク質の他にもう一つ、RNA を付け加えなければなりません。



RNA ワールド 

 話を先に進める前に、一旦ここで立ち止まって DNA と RNA の復習をしておきましょう。遺伝子の本体である DNA(デオキシリボ核酸)は、2本の鎖(ポリヌクレオチド鎖)が塩基を内側にして対合した、梯子を捩じった様な螺旋状の分子です。これが有名な DNA の二重らせん(ダブルヘリックス)構造で、普通は右巻きの螺旋になっています。梯子の横棒に相当するのが、アデニン・グアニン・シトシン・チミンの4種類の塩基で、対合する相手がアデニンはチミンと、シトシンはグアニンと決まっている事が、遺伝情報の担体としての鍵となっています。そして塩基 3個が一組になって、アミノ酸一つを指定する暗号となっています。DNA の複製時には 2本鎖が分離した後、各1本鎖に相補的な塩基を持つヌクレオチドが結合して 2本の二重らせんが復元される訳です。

図3)DNAの 2重らせん構造

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図4)DNAの複製

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 しかし、DNAを複製して子孫に遺伝情報を伝える事は、 DNA の役割の一面に過ぎません。 もう一つの重要な役割が、 生命活動に不可欠なタンパク質合成の情報を細胞に提供する事です。そして、タンパク質合成に必要となるのが RNA なのです。

 DNA と RNA(リボ核酸)との違いは、塩基がチミンの代わりにウラシルが使われている点と、ポリヌクレオチド鎖の骨格を形成する五単糖(ペントース)の酸素原子が DNA では一つ少なくなっている点です。しかし分子構造における大きな違いは、 DNA が 2本鎖なのに対し、 RNA が 1本鎖である点です。その結果、RNA 分子の内部に相補的な塩基配列がある場合、そこで対合して2本鎖を形成してあちこちで折れ曲がり、独自の立体構造を形成する場合が有るのです。図5)のtRNA を見れば 分かりますが、4 箇所で 2本鎖を形成しクローバー状の形になっています。それがさらに折りたたまれて、L 字型の三次元構造を形成している訳です。タンパク質はそのアミノ酸配列に固有の立体構造を持ち、それがタンパク質に生命活性を与えていると述べましたが、 RNA もその塩基配列によっては、固有の立体構造を形成する場合があるのです。

図5)tRNA のクローバー状の二次構造と L字型の三次元構造

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 もうお分かりですね。 配列によって一義的に決まる立体構造を持つ RNA は、タンパク質と同じく生命活性を持ち得るのです。実際 RNA の中には、タンパク質と同様に触媒として機能する、酵素活性を持つリボザイムと呼ばれる分子が知られています。そしてタンパク質合成においても、rRNA(リボソーム RNA)とtRNA( トランスファー RNA) が、決定的な役割を果たしているのです。 

 タンパク質合成では、 DNA の遺伝情報が mRNA に転写され、タンパク質合成工場のリボソームが mRNAのアミノ酸配列情報に従って、アミノ酸を次々と付加・結合してタンパク質を合成しています。このリボソームは、50種類以上のタンパク質分子と 数種類のrRNAからなる巨大な複合体で、大小二つのサブユニットから構成されています。しかし、リボソーム全体の立体構造とmRNA上でのtRNAへの配置、アミノ酸同士をペプチド結合させる酵素活性も、rRNAが担っているのです。一方、リボソームタンパクはrRNAの隙間を埋め、リボソームの立体構造を安定させる程度の役割しか果たしていません。生命活動の根幹をなすタンパク質合成において、rRNAが決定的な役割を果たしている事実は、生命進化の初期段階にRNAが触媒としてタンパク質合成を進化させ、生命誕生に中心的役割を担っていた事を示唆しています。 

 tRNAは 73〜93塩基の L字型の小さな分子で、遺伝暗号に適合するアミノ酸をリボソームまで運んでいます。リボソームには、rRNAで出来たtRNAがぴったりと嵌り込む 3つの結合部位が存在し、mRNAに合わせて順に移動しながらアミノ酸を結合してポリペプチド鎖を伸ばして行くのです。つまり、rRNA・tRNAが立体構造を介して相互作用しながら、mRNAのアミノ酸配列情報に従ってタンパク質を合成していると言う訳です。

 新型コロナのファイザーとモデルナの mRNA ワクチンは、ウィルスのスパイクタンパク質の遺伝情報を持つ mRNA を細胞内に注入し、リボソームを乗っ取って翻訳させようと言うものです。こうして細胞内で合成されたスパイクタンパク質が放出され、免疫反応を引き起こして抗体が産生されると言う算段です。また、RNAは細胞内ではすぐに分解されますので、それを防ぐキャップ構造が付加されています。 

図6)リボソームでのタンパク質合成(mRNAの翻訳)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

  以上から生命活動は、配列によって決まる固有の立体構造を持つ、この 2種類の分子によって担われている事が分かります。タンパク質と RNA こそが真に生命活性を持つ分子であって、生命の存在そのものを可能にしている分子なのです。先に、タンパク質なしに生命は有り得ず、同時に細胞なしではタンパク質は合成できないと述べました。つまり生命誕生を考える時、タンパク質だけでは「鶏が先か卵が先か」という問題に行き着いてしまう訳です。しかし、酵素活性を持つ RNA が発見された事で、問題が一挙に解決に向かいました。RNA が情報分子で有ると同時に触媒分子でも有り得る事から、初期の生命は 「RNA ワールド」から構成されたのではないかと考えられる様になったのです。これを「RNA ワールド仮説」と呼んでいます。RNA が、自身の複製の為の触媒として機能すると同時に、タンパク質合成の触媒としても働いたと考えたのです。その後、遺伝情報の担体としてより相応しい分子構造の DNA が取り入れられたと言う訳です。こうして約 40億年前、誕生したばかりの原始の海には RNA ワールドが広がり、生命誕生への模索が始まっていたのです。 

 RNA が塩基配列の違いによって様々な三次元構造を取り得るのとは対照的に、 DNA は二重らせんと言う非常に均一で安定な構造で、RNA やタンパク質のような構造上の多様性がなく、生命活性も持っていません。そういう意味では、あまり面白味みの無い分子と言う事もできます。ただ、1本鎖のRNA に比べて、2本鎖で分子構造的に安定している為に、初期生命の誕生後にRNA に代わって遺伝情報の担体として利用されたと言う訳なのです。



遺伝子の発現調節

 細胞内の生化学反応は、ある反応の産物が次の反応の基質となるという具合に、 代謝経路の中で連鎖的に起こっています。そして個々の経路も孤立して存在するのではなく、網の目状に張り巡らされた様々な代謝経路が、複雑に相互作用しながら進行しています。糖代謝・アミノ酸代謝・脂質代謝・ヌクレオチド代謝など様々な代謝経路が、複雑に入り組んだネットワークを形成し、互いに影響し合いながら無数の化学反応が、小さな細胞内で同時進行している訳です。この複雑極まりない代謝経路網のバランスを崩さず、調和を保ちながら恒常性を維持して行く事が、如何に困難な仕事か想像できるでしょう。 

図7)代謝経路網(中央下方の円がクエン酸回路)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 ところで、代謝経路で起こる一つ一つの化学反応は、 細胞内に数千種類も存在する反応特異性を持つタンパク質酵素によって担われています。したがって、代謝経路をコントロールするには、個々の反応に関わっている酵素を制御する必要が有ります。それは酵素活性の制御と、タンパク質酵素の合成をコントロールする事で行われています。

 酵素活性の制御の方法としては、代謝経路の最終産物が最初の反応を触媒する酵素の調節部位(アロステリック部位)に結合して立体構造を変化させ、反応を阻害するフィードバック阻害がよく知られています。もう一つ重要な方法が、酵素の特定のアミノ酸をリン酸化して形を変化させて活性化する方法です。細胞内の多くの酵素がこの可逆的リン酸化で制御されており、ヒトのゲノムにはこの反応を触媒するプロテインキナーゼ遺伝子が 500以上も存在し、タンパク質をコードする遺伝子の 2%に相当すると言われます。 

 しかし最も重要なのは、遺伝子の発現調節を通じたタンパク質酵素の合成のコントロールです。実は、遺伝子が発現してタンパク質が合成されるまでに、何段階にもわたる複層的で極めて複雑な制御を受けています。代謝経路をスムーズに運行させる為には、必要な時に、必要な場所で、 必要量の酵素を供給する事が不可欠な訳で、その為には関連する反応間で膨大な量の情報のやり取りが必要となるからです。次に遺伝子の発現調節について簡単に見ておきましょう。

 DNA から遺伝子が読み取られ、タンパク質が合成されるまでの幾つもの段階で、遺伝子の発現調節が可能となっています。転写からタンパク質合成までの、段階ごとの制御は次の様になります。

① クロマチンの再編成
② 転写制御とプロセッシング制御
④ mRNA の輸送制御
⑤ mRNA の安定性制御
⑥ タンパク質合成の翻訳制御
⑦ タンパク質活性の翻訳後制御・タンパク質分解 

 まず、DNA から遺伝情報が読み取られるには、 RNA ポリメラーゼ(RNA 合成酵素)が DNA に接近できるように、クロマチン(染色質)の再編成が必要です。真核生物では DNA を核内にコンパクトに収納する為に、DNA がヒストン・タンパク質に約1.65回ずつ巻き付いたユニット(ヌクレオソーム)が糸に通したビーズ状に連なり、さらにコイル状に詰め込まれてクロマチン繊維を形成しています。細胞分裂時に現れる染色体は、クロマチンが足場となるタンパク質に結合し、さらに凝集して折り畳まれたものです。転写を活性化する為には、DNA とヒストンとの間の電気的引力による結合を緩める必要が有り、それをヒストンへのアセチル基(CH3COー)の付加で行っています。反対にアセチル基が除去されると転写が抑制され、遺伝子の発現が阻害される訳です。

図8)DNA・クロマチン・染色体


 (出典:ウィキメディア・コモンズ)

 次に、DNA の遺伝情報が RNA に転写される訳ですが、真核生物では DNA から転写されたままの RNA では機能しません。実は真核生物の遺伝子には、そのほとんどに「イントロン(介在配列)」と呼ばれる翻訳されない非コード配列が混じっており、「RNA スプライシング」によって不要な配列を切り出す必要が有るのです。そして、RNA の両端に 5′キャップとポリ A 尾部が付加されて、mRNA(メッセンジャー RNA)が完成します。
 
 また RNA スプライシングの時に、イントロンと共に遺伝情報をコードした特定のエクソンも一緒に切り出され、エクソンの組み合わせの異なる mRNAが作られる事があります。これを「選択的スプライシング」と呼んでいます。こうなると一つの遺伝子から、遺伝情報の異なる複数のタンパク質が合成可能になります。ヒトの遺伝子は約 2万個といわれますが、選択的スプライシングによって、より多くのタンパク質が合成できる訳です。実際、ヒトの全遺伝子の約半数が、選択的スプライシングを受けていると言われます。 

 さて遺伝子の発現調節と言えば、DNA から RNA への転写を制御する、転写調節が 最も一般的です。遺伝子の発現は、DNA の配列情報が RNA に転写される事から始まる訳ですが、それには DNA の遺伝子コード配列の直前にあるプロモーターと呼ばれる領域に、RNA ポリメラーゼ(RNA 合成酵素)が結合しなければなりません。プロモーター領域には複数の調節配列が存在し、その配列を認識して結合できる立体構造を持つ転写因子が、DNAに結合して転写速度を制御をしているのです。真核生物では、 DNA 上で RNA ポリメラーゼに基本転写因子と呼ばれるタンパク質が数個結合し、転写開始複合体を形成して初めて転写が可能になります。また DNA 配列の中には、遺伝子から遠く離れた場所から転写速度を高めたり阻害する、エンハンサーやサイレンサーと呼ばれる調節配列も存在します。この場合はクロマチンの湾曲によって、DNAの調節配列に結合した転写因子と、プロモーターに結合した転写開始複合体とが接近して相互作用し、転写速度を変化させる事になります。このように遺伝子の転写速度は、DNA 配列に結合する複数の転写因子の組み合わせによって決定されているのです。

図9)エンハンサーによる転写調節

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 もう一つ重要な転写調節の手段が、DNA のシトシン塩基のメチル化(メチル基ーCH3の付加)です。DNA のプロモーター領域での可逆的なメチル化によって、転写速度がコントロールされているのです。 このメチル基の付加は、DNA メチルトランスフェラーゼによって触媒され、反対に脱メチル化はデメチラーゼによって触媒されます。

 この DNA メチル化は、ミツバチのメスが女王蜂になるか、働き蜂になるかの決定に関わっています。幼虫期にローヤルゼリーを食べたメスは、多くの遺伝子の発現が劇的に変化して女王蜂になります。実験で、メチル化を触媒するメチルトランスフェラーゼ遺伝子の発現を阻害すると、働き蜂になるはずの幼虫が女王蜂になってしまうのです。また、受精卵から胚への発生過程でも、DNAメチル化が重要な働きをしています。受精によって精子と卵子の多くの遺伝子が脱メチル化し、通常は不活性な遺伝子の多くが初期発生段階で一斉に発現するのです。そして胚の発生が進むと、不要な産物をコードする遺伝子はメチル化され、不活性化されます。 

 こうして、転写調節とプロセッシングを受けて完成した mRNA は、核膜孔を通って核から細胞質に輸送され、タンパク質合成工場のリボソームで翻訳されタンパク質が合成されます。この翻訳前後においても調節が行われています。 実は、 酵母細胞では遺伝子の 2 / 3で、mRNA とタンパク質の間に明確な量的相関関係が見られないと言います。つまり  mRNA 量が多いのにタンパク質はほとんどなかったり、反対にタンパク質が多いのにmRNAがほとんど無いというケースが有るのです。これは翻訳の制御と、翻訳後のタンパク質量がコントロールされていることを示しています。

 翻訳の調節で興味深いのは、 22 塩基程度の小さな RNA 分子の mi RNA(マイクロ RNA) が関係しているものです。ヒトゲノムには、1000種類ほどの mi RNAが、ジャンク DNA 領域でコードされています。mi RNAはまず長い前駆体として転写され、2本鎖の RNA 分子に折り畳まれた後、短い1本鎖に切断されます。こうしてできた mi RNAは、タンパク質と結合した後、標的となる mRNAに移動して結合し、翻訳を阻害するのです。

 また mi RNAによく似た分子に、si RNA( 低分子干渉 RNA) が有ります。これはウイルスが感染して 2本鎖 RNAが合成された時、mi RNAの場合と同様に短い1本鎖の RNA 分子に切断されてできるもので、タンパク質に結合した後、標的 mRNAに移動してそれを分解してしまいます。これは、ウイルスに対する防御機構として進化したと考えられています。 もう一つ、sn RNA(核内低分子 RNA) というものも有りますが、これは RNA プロセッシングに関わっています。

 その他の翻訳の制御には、mRNAの 5‘末端にGTPのキャップを付加して翻訳を阻害したり、 mRNAの 5‘末端の非コード領域が 2本鎖を形成し、その三次元構造にリプレッサー・タンパク質が結合して翻訳阻害するものが有ります。



遺伝子発現のネットワーク

 このように見てくると、一つの遺伝子の発現に何段階にもわたって重層的な制御が加えられている事が分かります。しかも、ここで注意して欲しいのは、遺伝子の発現調節に関係する転写因子や、メチル化を触媒する酵素などのタンパク質も、遺伝子によってコードされていると言う点です。つまり調節因子自体が、標的遺伝子と同じように発現調節を受けている訳なのです。一つの遺伝子の発現は、何層にも渉って網の目状に張り巡らされた、相互作用のネットワークの中で調節され決定されているのです。 

 しかも、遺伝子は孤立した存在ではなく、 代謝経路の中で他の遺伝子と共同して働いています。さらには幾つもの代謝経路自体が、相互作用しながらバランスをとって生命活動を維持している訳です。一つの遺伝子は周囲の多くの遺伝子から影響を受け、発現を制御されていると同時に、一つの遺伝子の発現は、ネットワークの他の遺伝子にも連鎖的な発現を引き起こして行きます。さらに一つのネットワークの発火は、次々と別のネットワークにも影響を及ぼし、その相互作用の連鎖は、絡まり合ったネットワークの網の目に沿って無限に広がって行く事になります。
我々の目の前にあるのは、想像を絶するほど複雑で錯綜した、遺伝子の相互作用のネットワークなのです。

 遺伝子の発現が、多くの因子によって何重にも制御されている事実は、 遺伝子が私達を支配するオールマイティーな絶対権力者などではなく、 むしろ様々な要因によって影響を受け左右される受動的な存在である事を示しています。実際、選択的スプライシングでは、遺伝子自体が編成替えされ、作り直されている訳です。個々の遺伝子は、生物にとっては一つの部品、道具であって、将棋の駒の一つに過ぎないのです。当然ですが、生物は遺伝子の操り人形や、「遺伝子という名の利己的な分子を保存すべく盲目的にプログラムされたロボット機械」「生存機械」などでは決して無いのです。 

 遺伝子は、一つのタンパク質をコードしているに過ぎない事を思い出してください。そしてタンパク質酵素は、一つの反応を触媒できるだけなのです。遺伝子は、一つだけでは何の役にも立ちません。代謝経路を見ても分かるように、多くのタンパク質が連携して相互作用する事によって、初めて生命活動が可能になっている訳です。重要なのは個々の遺伝子ではなく、何時、何処で、どの遺伝子を、どの様な順序で発現させるか、その発現調節のネットワークと言う事ができます。そして生物では、無数に存在するこのようなネットワーク同士が相互作用して、さらに高度で迷路の様に複雑な、遺伝子間の相互作用のネットワークを形成しているのです。真に重要なのは、絡まり合い無限に広がる重層的な高分子間の相互作用のネットワークであり、そこにこそ生命の神秘・生命の根源的な力は隠されているのです。エンゲルスに倣って言うなら、生命とは生体高分子間の立体構造を介した相互作用の総体なのです。

 ヒトの遺伝子は約 2万個に過ぎませんが、その組み合わせの数は事実上無限大になります。しかも遺伝子発現のネットワークが、何層にも重複して絡み合っている事を考えれば、その情報量は個々の遺伝子とは比べ物にならない膨大なものになるはずです。ヒトの遺伝子配列が、ゲノムのわずか 1.2% に過ぎなかった事は、むしろ当然なのかも知れません。そして、この発現調節の膨大な情報は、遺伝子をコードしていない非コード配列、つまりジャンク DNA の中に隠されている可能性が有るのです。最初に掲載したゲノムの表を見ても、ヒトと線虫で遺伝子の数はほとんど変わりませんが、ジャンク DNA 量では大きな違いが有ります。ヒトと線虫との差は、ジャンク DNA にこそ有るとも見れるのです。


(つづく)