6年半という長い肺がん治療のあと、ついに、妻は旅立って逝きました。

 

最後の1年半は、自力で歩くことが難しくなり、車いすで移動して大学病院に通院しながら、訪問リハビリ・訪問看護・訪問診療・訪問歯科・言語聴覚士(ST)など、考えつくあらゆる手を尽くし、多くの方々に支えていただきましたが、最後には、避けがたい終わりが訪れました。

 

その過程で考えたこと、感じたことは、多くありましたが・・・残された夫にとっては振り返ること自体が重く、切なく、・・・そしてまた、私を支えてくれていた妻、力強い伴走者であった妻を失った今、自分自身の人生を、やはり何時かはやって来る終わりへと向かって、一人で前へ前へと進めて行くことに必死であり・・・もはや、さまざまなことを書きしるす力が残っていません。

 

 

より良く生きたいという願いのため、妻は明るく頑張ってくれていましたけれども・・・病いが、妻から次第にさまざまな力を奪っていく中で、辛いことも多かったであろうと思います。

 

そしてまた、私も、理屈としては、妻がもう、かつての元気を取り戻す可能性が非常に低いと理解していても・・・妻が、歩くこと、食べること、話すこと、そして次第に幼な子のように戻っていくように、さまざまなことが不可能になっていくことを、素直に受け容れることはできなかった自分がありました。

 

しかし、極力は、私も笑顔に努め・・・車椅子の妻と散歩した思い出、自力で入浴できなくなった妻と2人で入浴して、お湯を掛け合って遊んだ思い出、自力で起き上がれなくなってからも、病床でバースデーケーキのロウソクを吹き消す妻の姿など、実は、楽しいことも多かったのです。

 

・・・しかし、妻を叱ったこと、いらだったこともあって、それが今、辛い思い出として刻まれています。今となって思えば、どこかの時点で、リハビリなどの努力、病いに抗うことを忘れ、穏やかに過ごすことだけを考えれば良かったのだと思いますが、30代という妻の年齢もあって、その「どこかの時点」を見極めることが私にはできませんでした。

 

 

それでもやはり、癌性髄膜炎という絶望的な状況の中でも、最善を尽くすことを忘れなければ、この6年半の、妻とのかけがえのない日々は得られなかったという思いもあり、それがまた、病いに抗う人類という、特殊な生命の宿命とも思い・・・

 

肺がん医療の改善に努めて来られた医療者の方々、そして、全世界の患者さんたちとその家族、関係者の方々が積み重ねて来られた努力のお陰で、妻は恵まれた日々を送ることができました。深い感謝の気持ちで、改めて、ありがとうございました。

 

そしてまた、おそらく10年後には、さらに素晴らしい医療の進歩によって、このブログに記した全てのことは、前時代的な古びた記録になっていることであろうと思います。その時まで、しばらくは、このブログを残しておきたいと思います。

 

今は、妻と出会った日から、妻が生きてきた日々のすべてに心からありがとう、と、そして、至らなかった私自身を、いつかは自分が許せる日が来ることを願いながら、擱筆とします。