これは私の体験から得た神経症に対する一つの考え方です。何かしらの参考になれば幸いです。(福井県在住 2009.5.24)

「死の恐怖の発露」
 私は青年期よりいろいろな神経症に悩まされてきましたが、神経症に陥る前提として、困難な環境やストレス、疲労の蓄積などがありました。心が弱っている状態が神経症を誘発する一因になったようです。そこで、なぜ心が弱っている状態だと神経症に陥りやすいのかを考えてみました。それは体の場合に置き換えて考えてみるとわかりやすいと思います。疲労が溜まっていたり、強いストレスがかかったりすると、体が傷つきやすくなり、出血したり骨折したりしやすくなるのと同じように、心も傷を受けやすくなるということです。そして心の傷は「死の恐怖の発露」という形で現れると考えてみました。

 体の傷は目に見えますが、心の傷はそれ自体目で見ることは出来ません。心の傷は通常誰もが持っている感覚を通して異常な恐怖感や不安感、違和感などとして現れるようです。これが死の恐怖の発露による一次障害です。これは生理的なダメージであって、体で言えば、出血や骨折、あるいは体の一部の喪失などに当たります。この死の恐怖の発露により、異常な恐怖感や不安感、違和感に悩まされることになります。これは一つの感覚障害と言えます。感覚は死の恐怖に支配され、正常な判断が出来ない状態に陥っていきます。現れる症状は人それぞれです。対人恐怖や不安神経症、強迫行為、震え、異常感覚など種々のものがあります。

 以上は、死の恐怖の発露による一次障害であり生理的なダメージですが、これには一過性で収まっていくものと継続するものがあります。症状が継続する場合、症状は生理的なダメージだけに留まらず、心理的なダメージを形成していきます。これが二次障害です。対人恐怖は対人関係を悪化させ孤立していきます。不安神経症は行動の範囲が狭められ、強迫行為は生活を停滞させてしまいます。また、震えは強い自己否定にもつながり、異常感覚は終日その人を悩ませることになります。このように死の恐怖の発露による心の傷は、生理的なダメージから心理的なダメージに発展し、その人にとってますます困難な環境を作り上げていくことになるようです。

「神経症の正体」
 神経症の症状(恐怖、不安、違和感)はとてもつらいものです。普通、恐怖や不安、違和感は誰にでもあるものと思われがちですが、神経症の恐怖や不安、違和感は、通常感じる恐怖や不安、違和感とは全く次元の異なるものです。誰もが理解できるはっきりとした対象に対して恐怖や不安、違和感を覚えるのではなく、対象の大小や有無にかかわらず恐怖や不安、違和感が湧き上がってくるのです。そして死の恐怖に支配された感覚は正常な機能を失い、正しい判断が出来なくなります。それが神経症として私たちを苦しめていたものなのです。

 心の傷は体の傷と違って目には見えないので、長く得体の知れないものとして扱われてきました。そしてそれが必要以上に恐怖や不安を大きく膨らませていました。正体がわからないものほど恐ろしいものはありません。殺人犯でも、捕まえられるまではどんなに凶暴な人物かと恐れたりしますが、捕まえてみたらまだ子供であったり、どこにでもいるようなおじさんだったりします。正体さえわかればそれだけで恐怖は半減するようです。神経症も同じです。正体がわからないから怯え、取り除くことに躍起になっていたのです。

 私がNPO法人「生活の発見会」という自助組織に入会した当時(1985年)は、神経症になるのはその人の幼弱性に一因があると言われていました。しかし幼弱性が一因なら、子供はみんな神経症に陥るということになりますが、むしろ大人でも幼弱性の強い人ほど神経症とは無関係であるように思います。また経験不足といったことも誰にでもあることです。ただ、症状に陥ることで依存的になったり逃避的になったりして、周囲からみるとそれが甘えに映ることもあるようです。体に傷を負った場合も、依存的になったり逃避的になったりします。一時的には依存的になったり逃避的になったりしたとしても、少しずつでも自立に向けて行動していくことが大切です。

「体の傷と心の傷」
 体に大きな傷を受けた場合、傷跡が残ったり体の一部を喪失したりすることがあります。傷を負った人は、生理的なダメージから次に、その生理的なダメージがもたらす心理的なダメージを抱えることになります。しかしその人は生理的なダメージを抱えながらも心理的なダメージを乗り越えて生活をしていきます。その人が辿る道筋は「あるがまま」「なすべきをなす」「事実唯真」など、森田療法でも言われていることそのものです。その人にとって再起とは、傷跡がなくなることでも喪失したものが元に戻ることでもありません。傷跡を抱えたまま、失ったものは他で補いながら生きていくことなのです。

 体の傷の痛みは、最初は強いものであっても、年月を経るにつれ癒されていきます。しかし傷が大きい場合、傷跡や後遺症が残ることがあります。心の傷も、心が外に向いていくに従い症状は小さくなっていきますが、やはり大きい傷の場合は、傷跡や後遺症が残ることがあります。私にも症状によっては傷跡や後遺症のあるものがあります。程度の差こそあれ、ちょくちょく顔を出したりもします。それはやはり、疲労が蓄積していたり、過度のストレス状態が続いたりしたときなどに現れたりするようです。「古傷が痛む」と言ったりしますが、神経症も同じような気がします。

 以上、神経症を心の傷と捉え、死の恐怖の発露による生理的なダメージからくる一次障害とそれに伴う心理的なダメージからくる二次障害によって発展したものであると考えてみました。従来、神経症は、気の迷いとして、あるいは気のせいのように取り扱われ、軽んじられてきたように思います。しかし実際はとても根の深い心の傷のような気がしています。また、単なる考え方の誤りといったことでもないと思います。同じ症状でもその背景は様々です。症状はその人の影のようなものです。その裏にはその人その人の人生が隠されているように思いました。