お屋敷に着いて


母親と互いの無事を確認した少年は


先刻まで隣にいた智さまとの


絶対的な距離を思い知らされた。





大野家中では。


男も女も皆が智さまに夢中で


今までのお武家さまへの印象を


変えざるを得ないほどに


愛されるご主人さまであった。





少年は寂しさを覚えた。


まずふたりきりになどなれない。


多くの家来を抱え


多くの案件を抱え


次々とお目通りを望まれて


智さまは忙しくされていた。





雅「和くん。


困ったことがあったら、なんでも言ってね」





少年と母親の世話係になったという


相葉氏がとても親切にしてくれた。


だけど、こんな立派なお屋敷で


お客さん然としていられない母子は


長屋に帰るか


あるいは何か仕事を与えて欲しい、と


願い出た。





翔「危ないから暫く此方にいて欲しいと


主人が申しております。


こちらは黒松工芸の職人さんです。


大野では地元の産業を保護する目的で


老松を加工するお手伝いをしています。


よろしければ、こちらのお手伝いを」




下田近隣で採れる老松を


削ったり磨いたりする仕事だそうだ。




少年は真面目に取り組んだ。


幸いにも手先が器用だったことと


智さまとの距離を感じて


寂しかったことから


朝から晩まで老松細工に専念して


素敵なものを生み出せるようになった。




大野家中では


少年が工芸仕事を覚えるのを


皆が目を細めて喜んだ。


自立していく、ということ。


若さと美貌だけに頼らずに


自分の身を立てられるということ。


それは尊い、とされた。





やがてアメリカのペリー使節団が


下田から函館へ偵察に行くとなり


智さまも同行されることになった。


少年は一緒に行くことが叶わず


お留守番となってしまった。












「お江戸に奥方がおられるのかね」





全くもって女の影のないことから


きっとお江戸に素敵な奥方がいらっしゃる


屋敷内の女どもはそう囁いていた。





少年はたった二晩


智さまの隣に寝ただけである。


肉体関係など何もない。


しかもそのうち一晩は


左の隅っこに布団を寄せて


避けるみたいにして寝たくせに


今となってはその二晩が


かけがえのないものとなっていた。





少年は


この想いこそ恋であると識ったのだ。


助けられた恩だけではない。


寝ても覚めても


ずっと


朝から晩まで


智さまのことばかり想ってしまう。


同行を許された潤さんが羨ましかった。


智さまをお守りする仕事・・・


自分もお側でお仕えしたい。


智さまのお世話をしたい。


他の誰にも・・・


添い寝など・・・させたくない・・・






少年は


一度自覚してしまうと


智さまへのつのる恋心を持て余して


いつしか・・・


それは熱い情念となるほどに


智さまを思慕するようになっていた。





もう一度


天城を越えたい。


ふたりで越えたい。


智さまとふたりきりで・・・





九十九折り


浄蓮の滝


わさび沢


隠れ道


小夜時雨


寒天橋




鮮やかに蘇る


ふたりで歩いた天城峠・・・





もう一度


天城を越える時が来たら


その時こそきっと・・・


きっと・・・この身を捧げる・・・





ただ一夜でも構わない。


智さまと越えたい。


天城を越えたい。


ふたりを隔てる全てを越えたい。





寂しさに耐えながらも


智さまへの恋情をつのらせる月日は


恐ろしいまでに少年を美しく成長させた。






あと三話です。