浄蓮の滝で渇きを潤し


汗と泥で汚れてしまった軀を浄め


男と少年は流れに沿って少し下った。





智「ほう・・・これは見事な・・・」





渓流傍には一面に白いわさびの花が


今を盛りに咲き誇っていた。


わさび沢である。




青年「幕府の御方か?」




不意に声を掛けられて驚いたものの


男は大野と名乗り挨拶をした。





智「江戸から下田への道中です」




青年「私は瓜中万ニ*と申します。


長州藩の吉田松蔭が伊豆で名乗ったとされる名前。

下田からペリーの黒船に乗り込んで渡米しようと

試みたものの失敗に終わる。


幕府のお役人さまは


大概は船で外海から来られるが


陸から・・・あの天城峠をお通りで?」


智「次の船を待つよりも陸を走った方が


到着が早いと思われたものですから。


それに伊豆の国を識りたかった」


瓜中「馬も、お連れもなしに?」


智「どのように険しい山かも知れぬのに


愛馬を連れては来られません。


ましてや大切な家中の者は・・・


連れの者には船出を待って来るようにと


伝えております」


瓜中「よほどの御仁とお見受けする」





年もさほど変わらぬ青年の言葉遣いには


どこかしら長州訛りがあり


会話の節々に教養を感じられた。





農夫「先生。


これは食べられますか?」


瓜中「これ。人を簡単に師にするな。


こちらの客人をもてなされよ」


農夫「はい」





籠いっぱいに山菜を摘んだ農夫が


その若者に専門的なことを問うたので


只者ではない、と感じた。




農夫「この辺りには宿がありません。


下田まで徒歩であと半日ほどかかります。


うちに寄って行かれますか?」


智「それは、かたじけない」





男はふたり分の宿代にと


それなりの対価を払った。





その民家の一番良い部屋に通されて


さらに近くの秘湯にも案内してもらった。


男と少年は共に裸になり


秘湯にて旅の疲れを癒やした。




少年の真っ白な軀は紅く染まり


肌理(きめ)細やかな柔肌は


湯を弾くほどにむちむちとして


男は直視できずにいたが・・・


大事に洗っているものを見て驚いた。




智「それ・・・その、手拭い・・・」

和「綺麗に洗いましたので

お背中を流します」



足を包んでやったものを

大事に持ち歩いていたのか・・・




背中を向けると白い手が

ゴシゴシと丁寧に

男の背中を往復した。



智「代わってやろう」

和「そんな、もったいない」

智「いいから。貸せ」



少年は遠慮したが

男は少年の背中を同じように清めた。

前はそれぞれ自分で洗い

湯を堪能した。





湯殿を出ると

白い炊き立ての米飯に山菜の天麩羅

わさびの花のお浸しをご馳走された。

貧しい山間(やまあい)の民家では

これが精一杯のもてなしだった。




農夫「娘にございます。

お慰めに・・・」



驚いた。

娘はまだ十五になるかならぬかである。

自分の娘を差し出すとは・・・




智「あ、お待ちください。

そのようなことは無用です」




娘はホッとしたのか

頭を下げてパタパタと立ち去った。

農夫が困った顔を見せた。




智「既に十分なもてなしです。

ありがとうございます」

和「・・・・・」




少年は黙って食べたものを下げ

テキパキと男の世話を焼いた。

今度は男の女房が何かお困りはないか

と、伺いに来たが

少年は部屋の手前で追い返した。




昨夜は左端に寄せた布団を

この夜は敷かれたそのままに

いや、実は、ほんの少し秘かに寄せて

男の隣に身を横たえた。




夜半を過ぎて・・・

月が出てきたのか

美しい男の寝顔を照らしたので

少年はじっと魅入って見つめた。




少年の知るどんな大人よりも

この男は優しく紳士である上に

所作もお心も見目形も

どこをどう切り取っても美しかった。




どれくらい見つめていただろう。




智「眠れぬのか」



目を閉じたままに男はそう問いかけた。

少年は驚いた。



和「・・・はい・・・」



少年はいつしかドキドキしていた。

この気持ちに特別な名前があることを

まだ知らぬまま・・・



智「おいで」



隣を許されて

人肌の温もりと腕枕・・・

背中を優しく撫でられるうちに

やがて・・・すやすやと眠りに堕ちた。



和「・・・智さま・・・」



寝言で自分の名を呼ぶ少年に

男もまた・・・

どうしようもなく心が動いた。

男はこの特別な感情の名前を知っていた。




智「・・・和・・・」



腕の中にある柔らかな軀と

確かにあるその温もりを

ぎゅっと抱きしめて・・・

下弦の月がこぼれる

額と髪の境目に

そっと・・・

そっと・・・優しく口付けた・・・





第二章「下田」に続きます。