神戸の寄宿舎の仕事を無くした和は


それでも智雄の学費や生活費


それに北海道の農地購入を支える為に


少しでもお金を稼ぎたかった。


学院長の紹介で


東京の某女子大学を創設した


アメリカ帰国子の日本女性に


共に働かないかと声を掛けてもらえた。


その人自身は日本語が得意ではなく


やり取りは英語で出来る女性


というのが一番の条件だった。




東京・・・




それは和にとって未知の土地であった。


京都より東は、もう蝦夷である。


淡路、神戸、京都、で北海道。


智から離れてしまうのも


淡路から離れてしまうのも


不安を覚えたけれど


和にとって働くことは


自分と智雄の生活を安定させる為に


必要不可欠なことだった。


そうやって生きてきたのだ。




和「ちょっと、東京へ行ってきます」


智「東京?」


和「お仕事の、人に会いに・・・」


智「誰?」


和「この人」




英文で書かれた文章の最後のサインは


確かに女性の名前であった。


智も知る有名な女性教育家である。


知性と好奇心、それに向上心。


辞書を引かねば読めない程の英文を


スラスラと読み


50歳近くでありながら


引く手数多の和はいつまでも魅力的で


ひとりでは、まず行かせたくなかった。


ちょうど良い。


東京のデパートでも売出しの企画がある。


智と和は一緒に新幹線で東上した。


考えてみれば


それは智と和の初めての遠出だった。





出来て間もない東海道新幹線ひかり号。


車窓から浜名湖も富士山も初めて見た。


パリのエッフェル塔を模して造られた


東京タワーは赤く光り


皇居前の内堀通りは


京都御所前の大通りよりも車線が広く

*(現在の烏丸通りが御所からのびる大通り。

平安時代の朱雀大路の名残は千本通りにある)


さらに外苑東通り、西通りが循る。


江戸城名残のお堀である千鳥ヶ淵には


京都に負けないくらい見事な桜が


今を盛りに咲き誇っていた。



*ララァさんのお写真です*





女子大学は可愛らしい建物だった。


和の母校も今では西宮の岡田山に


レンガ造りの洋館が立ち並んでいるけれど


東京の外れ、三多摩地方と呼ばれる


埼玉や山梨との県境近くの


自然豊かな環境は和の心を慰めた。


ここで学びながら仕事ができたら


どんなに素敵だろう・・・と


和はワクワクした。




一方で。


智は。


東京に和をひとり置いていく気持ちには


到底なれなかった。





さらに智の眉をひそめたのは





智「個別に、家庭教師・・・?」


和「永田町の議員の奥さまとお嬢さまに


勉強を教えるらしいの。


大学から一時間くらいで通えるところ」




一ヶ月分のお給料は


当時の大卒の初任給よりも倍近くあり


住居も用意されると書いてある。




和「まだ知らないことがたくさんあるの。


大学でも学んでみたい」


智「西宮や京都じゃダメなのか?」




議員って・・・なんなんだよ。


男の黒い影を読み取った智は


和の手をぐっと引いて


外苑前のホテルのベッドの


自分の下に組み敷いた。




智「俺の夢も・・・聞いてくれる?」


和「うん」




智は和に夢を語り始めた。





智の夢はとてもシンプルだった。




本当は。


和との初めての遠出は


北海道へ行きたかった。


霧の摩周湖や毬藻の阿寒湖も良いけれど


何より智雄が農場で元気に働く姿を見たい。




日々の暮らしは。


京都でも淡路島でも、何処でもいい。


ただ和と一緒に暮らせたら・・・


毎朝、共に起きて


「おはよう」と言いあえたら・・・


それ以上の贅沢はないよ、と・・・




いずれ本家の呉服屋は畳むつもりだ。


理学博士の甥っ子に店を継ぐ意思はないし


その子どもらも父親に似て


商売よりも学問に向いている。




自分の母親を見送ったら


京都から智自身も自由になって


和とふたりきり


智雄の人生を応援しながら


余生を送りたい・・・






和は、ほろほろと涙を流した。


それは温かい涙だった。


あまりにも


自分本来の夢と同じ過ぎた・・・




智は、和に人生の本質を


思い出させてくれた。


あの馬車通りの出会いから


かなりの時間が過ぎていたけれど・・・




智の愛から、はぐれてはいけない。




智と和で見る夢は


他の何をも越えて・・・


雲の彼方までも重なり合い


和の心を智の色で染め上げた。  



*ララァさんのお写真です*




わたの原
漕ぎ出でてみれば 久かたの
雲ゐにまがふ 沖つ白波

詩花集・前関白太政大臣藤原忠通