終戦間近のある晩のこと。


寝かしつけたはずの智雄が


コホコホと咳き込んでいるのに気付いた。




自分の母や姉を


肺の病気で亡くした和は


その咳がどうしても気になって


神戸の大きな病院へと


火の粉が舞う中を連れて行った。




医者「このまま入院ですね。


手遅れになる前でよかった」




まだ小さな智雄に付き添う為


和は神戸に質素な部屋を借り


働きながら智雄の看病をした。


母校の斡旋で就いたその学校は


空襲を避ける為に黒く塗られていた。


入院費、治療費、滞在費


とにかくお金が必要だった。




領「父さんからその話を聞いたことがある」




悟はぎょっとして領を見つめた。


領くんのお父さん・・・?


うちの親よりも年配の


あの穏やかな北海道の伯父さん・・・


見渡す限りの大きな玉葱農場・・・


領くんには確か年の離れたお兄さんもいる。


じゃあ、京都の本家のお爺さんは・・・?





智「智雄は、なんて言ってた?」


領「小さな頃は


和さんを本当に乳母だと思っていた、と。


乳母である和さんが


火の粉の飛び散る中、自分を抱いて


神戸の病院まで連れて行ってくれた。


寝ずの看病をしてくれて


薬のアレルギーで痒くなった時には


ハンカチを湿らせて


掻かないように優しく拭いてくれたって」




和は涙ぐんだ。


あの頃は・・・


ただ智に無事に帰ってきて欲しくて


ただ智雄の肺の曇りが晴れて欲しくて


ただ戦争が終わって欲しくて・・・




智「あの頃を思い出すとここが痛むよ」




智は胸を押さえた。


和も同じように胸を押さえた。


ふたりはどこまでも一対だった。





智「智雄のことを知らなくてね・・・」





昭和20年8月。


智はまだ満州に居た。


ロシアとの国境近くに配置された智は


愛しい人の父親の消息を探って捕まった。


スパイ罪は死刑だと宣告されて


冷たい土地で長く拘束されてしまった。


お国の為に人を殺めるより


ただ自分の人生を歩みたかった。


結婚の許しが欲しかったのだ。


内縁状態を解消したかった。


愛しい人を自分の籍に入れたくて


愛しい人と人生を歩みたくて


無謀な動きをしてしまった。





長く智が帰らないうちに


京都の義父は亡くなった。





日本は終戦を迎えた。


長兄の息子ふたりは帰ってきて復学した。


上の男子は理学博士になり


真ん中の男子は農学部を卒業後


北海道大学と共同で玉葱の改良に努めた。


肺の病気治療のために


北海道での転地療養を勧められた智雄を


やがて養子に迎えてくれた。


父親である智がまだ帰って来ないまま


智雄はちゃんとした戸籍に入ったのだ。


学校に行く為にも必要なことだった。


この国で生きて行く為に


必要なことだった。




時代は代わり人々の装いも変わった。


呉服の商いはさっぱりになり


大野屋は規模を小さくしていかなくては


いけなくなった。


一度大きくした事業を小さくすることは


その反対よりも難しく痛みを伴う。


まだ若い三番目の男子と静の夫婦では


京都の財界人を相手にうまく立ち回れず


大野屋は厳しい局面を迎えた。





そこに智が帰ってきた。