洲本の屋敷は二宮家の名義のまま


そこに智は自分の住民票を移した。


要するに同じ住所地に


洲本大野家と洲本二宮家の


ふたつの世帯がある、という扱いとした。


智は淡路島いちの長者になるほど稼ぎ


洲本の屋敷の賃借料を向こう五十年分


前払いすることで二宮家を助けたのだ。





和の甥っ子である潤が


学問所で学ぶようになると


少し先輩の櫻井家の翔と相葉家の雅紀が


進んで面倒を見てくれた。


姪っ子の静(悟の祖母)はお裁縫が好きで


一日中でも人形の服を作りたがった。


少し和裁を教えてやると


ひとりで着物を縫い上げるまで上達した。


叔母である和を実母のように慕い


松本家と二宮家の良いところを集めた姪は


和にもどこかしら似て可愛らしかった。




智母「この娘は裁縫の筋が良いね。


京都の店に来るかい?」




当時は地方出身の年少の丁稚やお針子を


数多く抱えていた京都大野屋。


松本家ではこの奉公の話を皆が喜んだ。


和の姪っ子静は智の母に手を引かれて


京都まで上っていった。




やがて戦争が始まってしまうと


男はどんどん戦にとられた。


潤や静の父親も例外ではなかった。


京都でも智の長兄が出征した。





それから程なくして智にもその時が来た。





智は心を尽くして


自分の留守を万全に調えた。


籍こそ入れていないが、和は妻だった。


淡路の寺にも友人にも


また京都の実家にも


自分の不在の間、和のことを頼んだ。


洲本の屋敷のこと


慶野の松原の大野屋のこと


愛しい人を守る為に


智は出来うる限りのことをした。





智がいよいよ入隊するとなり


本籍のある京都まで一度戻らねばならず


和も見送りの為に上京した。


お役所的には智はもう淡路の人ではなく


京都の人の扱いだった。





京都大野の家では戦時中だから、と


華やかなことは慎んでいたが


和の為に黒引振袖が用意されていた。


和の父親から許しさえ出たら


上賀茂神社で祝言を挙げさせてやろうと


大野の両親が準備をしてくれていたのだ。





・・・結婚式・・・やりたかったな・・・





それでも出征の前夜。


智とふたりきりになる時に


それを着せてもらえた。


誰に見せびらかす訳でもない。


ただ智の為だけに着た花嫁衣装だった。




智「・・・綺麗だ・・・」




日の目を見ない花嫁衣装。


智は黒蝶を自分の腕に閉じ込めた。


帯が解かれ前羽が剥かれ


やがて一糸纏わぬ姿になって


真っ白な背を震わせて愛を受けた。


ふたりはひとつになったまま朝を迎えた。




「いってらっしゃいませ」




和の父親はシベリアから戻らぬまま


もう二十年余が経過していた。


ひとこと「結婚を許す」と言ってくれたら


智の嫁として最前列で見送れたものを


智の両親の後ろで三つ指をついて


「どうぞ・・・ご無事で」


と、涙を隠して頭を下げた。


とても「万歳」など言えなかった。





智の両親は変わらず和を


智の許嫁として大切に扱ってくれたが


和のことをよく思わない者もいた。


大事な坊ちゃんを淡路などに閉じ込めて


大野の家にも入らないで何様なのだ、


どういうつもりなのか、と。





「なんだ。おばさんじゃない」





齢にして三十を過ぎた和に


面と向かって失礼なことを言ったのは


智のお見送りに集まった


大野屋お得意さまのお嬢さん方だった。


大野屋のご贔屓は祇園の置き屋を筆頭に


今をときめく太秦映画村の看板女優


それに大きな会社の社長令嬢と大勢いて


皆が美しく華やかで


そして老舗大野の嫁になりたがっていた。





「関係ない人は、さっさと田舎に帰って。


智さんのお見送りはこちらでやりますから」





入籍していないことは


こんなにも惨めで辛いのか・・・





路面電車が行き交う京都は


それでも華やいでいた。


行ってしまう智が涙で見えなくなる。


明るい軍艦マーチも


日の丸を振る見送りの人らも


遠い異世界のことのように思われた。




現実に戻してくれたのは


智の両親だった。




智母「和さん。お願いがあるの」


和「はい」




結果論からいくと


京都は戦禍を免れたのだが


当時、京都の人々は


もしも戦火が日本の国土に及んだら


真っ先に京都が攻撃されると危惧していた。


何故なら千年の古都だからである。


すべては京都中心に回っているのだから


敵国はきっと京都を攻撃する、と


人々は信じて疑わなかった。




智母「子ども達を淡路に疎開させたいの」




子ども達とは


智の甥っ子達である。





智父「私たちも足を運ぶから。


和さんの得意な学問を教えてやってくれ」


長兄嫁「どうぞよろしくお願いします」




和「かしこまりました。


大切にお預かりします」




和は泣いてなどいられなかった。


大野家が自分を頼ってくれている。


智の大事な甥っ子三人を預かり


自分の姪っ子静をも連れて


智のいない淡路へと帰っていった。




それは昭和の初め頃。


和はもう三十歳。


そしていつまでも智の「許婚」のまま


二宮家をひとりで守っていた。


何故ならば。


まだ父親が生きているかもしれないから。


和の結婚を許す権利を持つ


絶対的な家父長である旧士族の父親が


生きているかもしれなかったから。