京都千本に大野という商家がある。


江戸時代から続く屋号は「大野屋」。


京都でその名を知らぬ者はないほどの


大きな大きな商家だ。


菩提寺は上品蓮䑓寺、十二坊にある。


明治三十年の秋


智はここの三男坊として生まれた。




長兄は京都の家督を継ぎ、父の片腕として


多くの奉公人を抱えた商いを成功させ


すでに妻をめとり子もなしていた。


次兄は商いを成功させた父の教えで


北海道開拓団に一度は加わり


その成功体験をもとにブラジルへ移住。


大きな綿のプランテーションを経営した。


三男の智はいずれ分家してもらう代わりに


お前もフロンティア精神で市場を開拓しろと


柳小折に京都の物産を詰められて


須磨、明石の先までも行商に行かされた。




中でも兄嫁の由縁で出入りを許された


神戸花隈の英和女学校は


大のお得意さまだった。


特に絹織物は飛ぶように売れた。


良家のお嬢さん方が大勢集まるし


アメリカから日本へ来たご婦人らも


京都のものをすこぶる喜んだ。




その中に。


全くもって大野屋で買い物をしない


質素なお嬢さんがいた。




淡路二宮家の次女・和である。




旧士族の二宮家は極貧状態にあった。


神戸の女学校へ行かせる余裕など


実はほとんどなかった。


陸軍将校の父親はシベリアに赴き


長く帰って来ていないのだ。


和の姉は淡路島で一番大きな庄屋である


松本家に嫁に行き一男一女をもうけたが


病がちで伏せっていた。


その松本家の世話になるのは


旧士族の嫁である母の誇りが許さなかった。


母親は玉葱栽培に精を出し


夜は繕い物の内職をして


朝から晩までずっと働いた。


和に学問をさせるために


洲本の家を人さまに貸して


自分は質素な長屋住まいをしていた。





学業に専念させてもらえた和は


いつも小綺麗にはしていたが


継接ぎの古い着物に


これまたお下がりの袴を合わせて


髪はひとつに結えていた。


華美な装いをしなくても


その滲み出る美しさは神戸いちだった。





なんとかお近付きになれないものか。


智は凛と澄ました和を見かけては


話しかけようとして失敗していた。


聡明な飴色の瞳に溺れるように


じっと魅入っては視線を逸らされ続けるも


和のことは欠かさず日記に書いていた。


心が動いた時には詩に著した。





そんなある日のこと。


淡路へ渡る船で


偶々、智は和と一緒になった。




和さんだ///




胸のときめくままに


一歩一歩近付くものの


船は岩屋に着いてしまった。


洲本まで乗合の馬車でも一緒だったが


ドキドキし過ぎて声をかけられず


和が降りた学問所のところで


慌てて智も後を追いかけた。


その勢いのまま、やっと話しかけてみた。




はじめは物売りに用はないと


迷惑そうにしていたのだが


柳小折の中にあるものを見つけた和は


ぱぁ・・・っとその飴色の瞳を輝かせた。





和「これも・・・売り物?」


智「それは私のものです」


和「あなたの、本?」


智「私の・・・書いたものです」


和「まぁ・・・」




よかったら、と智は手汗びっしょりに


その帳面を和に押し付けた。


ぱらぱらとページをめくり


和が夢中になってそれを読む。


智はドキドキした。


間違えた字はないだろうか。


おかしなことを書いてないだろうか。


お名前を出してはいないはずだが


恋心を書き綴ったのはまずかったか。


気持ち悪い男だと思われたら・・・




額から汗がどっと噴き出た。




和「これだけしか持ってなくて・・・」




すまなさそうに


なけなしの小銭を出そうとしたから


慌ててそれを断った。




智「これは私の慰みものです。


お代をいただけるようなものではない」


和「ほんなら、お借りしても?」


智「あ、は、はい!!!」




こうして智と和は


淡路島の学問所前の馬車通りで


一冊の帳面を介して繋がった。




それはまだ大正時代に入ったばかり。


大きな戦争に巻き込まれる少し前。


純朴な智と清楚な和の


はじまりの時だった。