少し前ですが、、、仕事で下田へ行ってきましたビックリマーク

その帰り、日が暮れかかる頃ですが

足早に了仙寺と黒船ミュージアムに行ってきましたビックリマーク

 

 

1854年の1月。3月31日(嘉永7年3月3日)には日米和親条約が横浜で締結されます。

その中で決まったのが、

下田と函館(当時は箱館)の開港(箱館は翌年の開港)と

アメリカ船の日本における物資の確保、アメリカ人の安全の保障などです。

横浜で締結した日米和親条約では細かい点がほとんど決められていなかったため、

下田に上陸したペリーは早速日本側と交渉に入りました。

その場所となったのが了仙寺です。

 

<交渉が行われたという本堂>

 

10日間にわたる協議の結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)、

日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)が結ばれました。

この中で、アメリカ人は下田の街中を自由に歩く権利、

すなわち「遊歩権」を与えられました。これは一種の交流権ともいえるもので、

黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験しました。

了仙寺では、下田の町民たちを対象としたコンサートが

アメリカ海軍の軍楽隊によって開かれました。

これが日本での最初の洋楽のコンサートです。

 

「日米和親条約」は横浜で成立したことになっていますが、

実は最終的に下田で成立しています。

横浜では、日本語・英語・漢文で条約文がつくられましたが、

日本側が英語の条約文に署名を拒否しました。

そこで、下田で再度交渉し、日本語・英語・オランダ語の条約文がつくられ、

そこで初めて日本側も署名しています。

下田では、条約の本文の他に細かいことを決めています。

例えば、銀を使った日米の為替レートは、圧倒的に日本側に有利でした。

よく日米和親条約は「不平等条約」と言われますが、

これは明治政府が徳川幕府の交渉を否定するために作られたイメージで、

ペリーとの交渉で日本は一歩もアメリカに譲っていませんでした。

このような下田での日米交渉の場所が了仙寺です。

<了仙寺 公式HPより>

 

 

下田は40年ほど前は、毎年訪れていたんですが

子どもだったため、お寺へ来る・・・なんてことは全くなかったので

こんなにも歴史のあるお寺があったこと、

初めて知りましたビックリマーク

 

敷地内にある、黒船ミュージアムも行きましたが

間もなく閉館、という頃だったため、

ゆっくり見ることができず、残念でした・・・あせる

もし、また来る機会があったら

じっくりと見てみたいと思いますベル

 

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