12月8日の地元紙から。

12月8日は旧日本軍が米国ハワイの真珠湾を攻撃し大東亜戦争が始まった日です。

 

それについて地元紙は一面で本県長岡市出身で、開戦当時の連合艦隊司令長官であった山本五十六元帥大将を紹介しています。

 

記事では

『平和への思いと裏腹に 戦争回避模索、故郷愛し

と題し、元帥が「日米の国力差を知り、戦争に反対しながらも、米国攻撃を指揮する運命をたどった。」と記されています。

 

それ自体は事実ですし、私も郷土の英雄を尊敬していますので異論はありませんが、違和感を感じたのが4面の社説『日米開戦80年 戦争の愚かさを胸に刻む』です。

 

社説には次の言葉が登場します。

「当時の軍人や政治家の中で日米開戦に反対したのは山本一人ではなかった。

それがなぜ、開戦に傾いていったのか。どうしてそれを多くの国民が支持するようになってしまったのか。

歴史から真摯に学び、教訓を社会全体で共有し続ける。それが未来の平和につながるということをしっかりと肝に銘じなければならない。」

 

格調高い名文なのでしょうが、私は新聞が「開戦に傾いていった経緯」について詳しく書いたものを読んだことがありません。

多くのマスコミは先の大戦を語る時、「狂った軍部の暴走に国民は洗脳され、勝算のない無謀な戦争に突き進んだ挙句、国家を破滅させた。」というニュアンスの書き方をします。

そして必ず「先の大戦を起こしたことを反省」することが必要だと言います。

 

更に大体において、如何に戦争が悲惨であったかという記事をのみ書き連ね、「戦争は愚かだ。悲惨だ。嫌だ嫌だ。」と言い続けていればそれが「未来の平和につながる」と考えているようです。

 

しかし私にはそれが「歴史から真摯に学」んでいる姿だとも、「未来の平和につながる」ともとても思えません。

 

 

 

大体「開戦に反対したのは山本一人ではなかった。」と書いていますが、実際はそんなレベルの話ではありません。

日米開戦回避は『国策』でした。

冒頭の通り開戦日は1941年12月8日ですが、その年は11月いっぱいまで日本は戦争回避のために米国と交渉していたのです。

日米交渉 - Wikipedia

 

それが何故、「真珠湾攻撃」という日本から先に手を出す結果となったのか?

それをこそ日本人は「真摯に学び」、「教訓を社会全体で共有し続ける」必要があるのです。

 

 

まず、「日米交渉」の前提となるのがアメリカによる日本への経済制裁です。

ABCD包囲網 - Wikipedia

 

1937年の日中戦争(当時は「支那事変」。宣戦布告を伴う戦争は中立国との交易・援助が受けられないのでどちらも行わなかった。)によって、中国大陸への権益に野心があったアメリカは日本に対する態度を硬化させ、中華民国蒋介石政権を物量的にも資金的にも援助します。

因みにこの時「フライング・タイガース」というアメリカの義勇軍が登場するのですが、義勇軍と称してても戦闘機もパイロットもアメリカ軍が手配していました。

フライング・タイガース - Wikipedia

 

援助するだけならまだしも、アメリカ・ルーズベルト大統領は1941年2月3日、日米開戦前にも関わらず、国務省内に日本と戦って屈服させた後に、日本をどのように処理するかを研究する特別研究部を発足させています。

更に7月18日(日本で後述の仏印進駐が決定される10日前)には提供した爆撃機を中華民国空軍機に偽装して「フライング・タイガース」に操縦させて中国航空基地から発進し、東京、横浜、大阪、京都、神戸を爆撃するという、日本本土爆撃作戦計画を承認しています。

真珠湾攻撃陰謀説 - Wikipedia

 

小林よしのり「新ゴーマニズム宣言 戦争論2」では、「後に東京裁判でパール判事は『米国は自らの行為によって真珠湾攻撃のはるか以前から交戦国となっていた。』と述べた」ことが紹介されています。

 

後述しますが、表立って語られていないだけでアメリカは真珠湾以前から既に日本と戦争するつもりであったことを様々な言動で示しています。

 

ここまで書くと、「そもそも満州事変から支那事変をおこした日本が悪い」という批判を受けることになるでしょう。

それについても日本のみの視点で語ってはならない部分があり(「コミンテルン:国際共産主義運動の指導組織」の暗躍が大きく関わっている)、日本国内においては近衛内閣のブレーンだった「尾崎秀実」がソ連のスパイとして日本の戦略決定に影響を及ぼしていたことが分かっています。

尾崎秀実 - Wikipedia

しかしそれは範囲が広くなり過ぎるので本稿では大東亜戦争・対米開戦に限定して書いていきます。

 

 

 

さて話を戻し、アメリカによる対日経済政策のあらましは以下の通りになります。

 ・1939年(昭和14年)7月 日米通商航海条約破棄を通告(翌1月失効)

 ・1939年(昭和14年)12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術に関する権利の輸出停止。

 ・1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制

 ・1940年(昭和15年)7月 鉄と日本鉄鋼輸出切削 油輸出管理法成立

 ・1940年(昭和15年)8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸

 

これらの経済制裁により航空機燃料や屑鉄など戦争に必要不可欠な物資の供給をアメリカに頼っていた日本は窮地に陥り、国民経済をも圧迫することになります。

 

1940年9月、イギリス・アメリカが中国蒋介石政権に物資を援助している補給ルートを遮断するため、日本はフランス(ヨーロッパ戦線でドイツに降伏し、親独のビィシー政権が発足していた)との条約締結のもと、仏領インドシナ北部へ進駐(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間に日独伊(伊はイタリア)三国軍事同盟を締結します。

 

この同盟により、アメリカは日本を敵国とみなし、屑鉄と鋼鉄の輸出を禁止します。それにより日本国内は深刻な鉄不足となります。

日本はオランダ領東インドと石油など資源買い付け交渉を行い(日蘭会商)、また民間商社を通じてブラジルやアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を目指しますが、全てアメリカの圧力によって失敗し、1941年にはそれぞれ断念することになります。

この時、既に日本は航空機燃料と鋼鉄が底を尽きかけていました。

 

日本は対米緊張緩和のため、1940年は民間外交で、1941年4月16日から日本側は駐米大使 野村吉三郎ら、アメリカ側の国務長官コーデル=ハルらとの間で約50回に亘って交渉が行われることになりました。

 

これを複雑な交渉過程は省略し、日米双方の最終的な主張をまとめると、次のように要約することが出来ます。

 

日本側の主張

1.アメリカの斡旋で日中戦争を解決する。

2.一定地域の「防共駐兵」を除いては、日本軍は中国から撤退する。

3.「北部仏印」以外の東南アジアにこれ以上の「武力進駐」をしない。

4.アメリカは「満州国」を承認する。

5.日米通商の回復

 

これに対するアメリカの主張は

1.日本軍の中国大陸からの撤兵

2.「南進」政策の放棄と「北部仏印」からの日本軍の撤兵

3.「防共駐兵」「満州国」問題は別に話し合う(無条件ではない)。

 

日本にとって大陸の権益は日本兵の流した血によって得たものという認識がありましたが、アメリカの主張は端的に言うなればそれらを放棄しろ、屈服しろというものでした。

第一次大戦後に「不戦条約」が結ばれたとはいえ、ヨーロッパでは既に第二次大戦が始まっており、元を言えば欧米人は海外に侵略し植民地を作り、世界恐慌においてはその植民地を使ってブロック圏を形成して保護主義を取ってきたのではないですか。

日本の行動を、なぜ交戦国でもないアメリカ(実際の所アメリカは既に参戦していたのですが)にそこまで強く出てこられなければならないのか。

当時の日本としてはそのような意識があったことが推察されます。

 

 

1941年7月、戦争継続が困難になった日本は石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するため、仏領インドシナ南部にも進駐(南部仏印進駐)します。

因みにソ連のスパイであるゾルゲの手記によれば、この時 尾崎秀実は近衛政権の対外政策を南進論(南部仏真進駐)に転じさせる働きかけを積極的に行っていたとされています。

尾崎秀実 - Wikipedia

 

アメリカはこれに対する制裁という名目で、「対日資産の凍結」と「石油輸出の全面禁止」を行います。

当時日本は石油の約8割をアメリカから輸入していため、この措置は極めて深刻なものとなりました。

言うなれば「兵糧攻め」にあっているのと同じです。

 

日本国内では石油貯蓄分が平時で2年、戦時で1年半といわれ、当然石油がなくなれば戦争どころか国民が生活出来なくなります。

日本に残された手段は石油が亡くなる前に産油地帯である蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略するしかありませんが、その攻略とその後の輸送ルートを考慮すると、当時アメリカ領だったフィリピン及びグアムの攻略が不可欠であり、それは必然的に対米開戦を意味しました。

 

時間と共に日本はジリ貧になるため、軍部においては直ちに開戦の必要があるという主張が強くなります。

 

9月、日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定。10月近衛内閣退陣、東条英機内閣発足。

11月に甲案・乙案と呼ばれる妥協案を示して経済制裁を解除を求めアメリカと交渉を続けます。

 

乙案の概要としては

1.日本は仏印以外には進出しない。

2.日中和平成立後、仏印から撤兵。本協定成立後、日本は南部仏印駐留兵力を北部に移動させる用意がある。

3.米は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動(要するに中国への援助)を慎む

4.日米の通商関係を資産凍結前に復帰する。アメリカは所要の石油の対日供給を約束する

 

つまり、日本はもうこれ以上戦争するつもりはない。戦争結果については日中で和平し決めるのでアメリカは中国を助けないでほしい。戦争で日本が得た戦果についてもチャチャいれないで欲しい。

それが済めばインドシナからも撤兵する。この申し出が認められるなら、まずインドシナ南部にいる兵は北部に引き上げる。

当然アメリカと戦争しようなんて考えていない。だから石油の禁輸と資産凍結だけでも解除してほしい。

という内容になっています。

 

これに対する11月27日(日本は「12月に入ったら戦争するしかない」と腹を決めていた。)にアメリカから帰ってきた返答が所謂「ハル・ノート」と呼ばれるものです。

 

その内容は

1.日本の支那及び仏印からの全面撤兵

2.アメリカの支援する蒋介石政権以外のいかなる政権も認めない(日本が支援していた政権の汪兆銘否認)

3.日独伊三国軍事同盟の実質破棄

 

という、日本にとっては「日中戦争どころか満州事変以前の状態に戻れ」という到底受け入れ難い、それ以前に「今までやってきた交渉は一体何だったのか。」と思わされるものでした。

 

ここに日本はアメリカが戦争を回避する意思がないことを実感し、外相であった東郷茂徳は

「目もくらむばかりの失望に撃たれた」

「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである。しかしこれは日本の自殺に等しい」

「この公文は日本に対する全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突き付けたと見て差し支えない。」

と語ったのでした。

ハル・ノート - Wikipedia

 

ここに日本はアメリカとの望まぬ開戦を決意することになります。

 

開戦に至る思いを当時の軍令部総長 永野修身は次のように語っています。(ただしこの発言自体は9月のもの)

 

「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出しうるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。」

 

 

ハル・ノートによって日本が戦争に踏み切るであろうことは当然アメリカ側も認識していました。

作成者であるコーデル・ハルはハル・ノートを日本に提示した後、ヘンリー・スティムソン陸軍長官に対し

「(対日関係について)私はそれから手を引いた。いまやそれは君とノックスとの手中、つまり陸海軍の手中にある。」

と、これから戦争になることを示唆しています。

ハル・ノート - Wikipedia

 

また前半にも書いた通り、アメリカは真珠湾以前から既に日本と戦争するつもりであったことを様々な言動で示しています。

 

ヘンリー・スティムソン陸軍長官の日記によれば、ハルノート提示の前日に彼はルーズベルト大統領との会話が以下のように記されています。

「差し迫った日本との戦争の証拠について議論するために、ルーズベルト大統領に会った。問題は、『我々にあまり危険を及ばさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか』」

これに対しスティムソンが

「敵が攻撃してくると分かっている場合に、手をこまねいて待っているというのも、あまり賢明なやり方ではない」と述べたのに対し、

ルーズベルトは

「確かに、日本軍に最初の一発を撃たせるということには危険がある。しかし、アメリカ国民の全幅の支持を得るためには、日本軍に先に攻撃させ、誰が考えてもどっちが侵略者であるか、一遍の疑念もなく解からせるようにした方がいいのではないか」

と返答したとあり、明確にルーズベルトが日本の先制攻撃を望み、そのように仕向けていたことが分かります。

真珠湾攻撃陰謀説 - Wikipedia

 

 

 

また、ルーズベルトはイギリス首相チャーチルと1941年8月9日ニューファンランド島で会談で行っていますが、アメリカのドイツに対する参戦を求めるチャーチルにこのように発言しています。

「(国内世論の制約があるので)まだ、それはできない。」しかし「あと数か月は、日本という赤児をあやすつもりだ」と、しばらく待つよう語りチャーチルを喜ばせています。

 

そして実際、日本の真珠湾攻撃を二人は喜び電話で会話しています。

其の22「日本はアメリカを攻撃したのです」(チャーチル)リーダーが決断するとき | 逆境を吹っ飛ばす江上“剛術”―古典に学ぶ処世訓― | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

 

ルーズベルトの前の大統領であるハーバード・フーバーは大東亜戦争について

「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男(=ルーズベルト)』の願望だった」

と指摘し、1941年7月の対日資産凍結、全面禁輸などの経済制裁を

「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」

と語っています。

ハーバート・フーヴァー - Wikipedia

 

 

以上のことを踏まえると、先の大東亜戦争が決して「狂った軍部の暴走で、勝算なき無謀な戦争に突き進んだ」だけではないことが分かります。

勿論、「いや、そもそも大陸に日本が出兵していなければアメリカから経済制裁を喰らうこともなかったのだ」という見方も当然あるでしょう。

 

私が主張したいことは、先の戦争にどちらが非があるかということではなく、

「戦争には必ず相手がいる」ということであり、「話し合いで平和が維持出来るわけでは決してない」ということです。

国際社会というのはそんなに甘っちょろいものではないのです。

 

今の日本だって、海外に出兵していなくとも経済制裁を喰らう可能性は高いのです。

中国が台湾を抑えればそれが可能になります。

 

それを考えれば社説の最後に書かれていた、米中対立に対しては日本が間に入って仲を取り持つべき、という思想が如何に茶番か、よくそんな文章でお客様からカネがとれるな、というものです。

 

どうすれば今後日本が悲惨な戦争を回避することが出来るかは、ただ「平和、平和」と空念仏を唱えるだけでも、軍事を否定することでもなく、それこそ新聞が言っている「本当に、歴史に真摯に学ぶ」ことです。

 

本当にあったことをキチンと皆がその情報を共有し、どうすればそれが避けることが出来たのかを考えること、

それは全然愉快な話ではなく、厳しい国際社会の現実と向き合うことですが、それこそが「未来の平和につながる」ことだと私は信じています。