「鬼滅の刃」の興行収益が日本で公開された映画の歴代2位にランクアップされたそうです。

これから年末にかけて、「千と千尋の神隠し」を抜いて歴代最高を更新するのも時間の問題ということで、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」の人気はとどまる気配がありません。

 

 

どんなに映像技術や声優の演技が素晴らしかろうと、やっぱり映画はシナリオが面白くなければヒットしません。

 

ネットのコメント欄が

「確かに映像は綺麗だったけど内容はつまらなかったよ。」

ばかりだったら、誰もこの映画を見に行きたいとは思わなかったでしょう。

 

言うまでもなく、この映画がここまで大ヒットしているのはシナリオが面白いからです。

 

ということで、今回はネタバレありでストーリーについて感想を書いていきます。

 

 

「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」において最も印象的であったキャラクターは誰か?

と映画の視聴者に聞いたとしたら、主人公の竈門丹次郎はもちろんのことながら、やはりそこは

 

煉獄杏寿郎

 

と答える人が圧倒的に多いのではないでしょうか?

 

もともとこの映画は原作コミックのまだ前半部分である7~8巻の、煉獄杏寿郎が活躍するエピソードを抜粋して制作されたものです。

エンディングにおけるスタッフロールの背景にも、杏寿郎が描かれた原作の扉絵が多数使用されるなど、「そもそもこの映画は煉獄杏寿郎を世に出すために制作された」と言っても決して言い過ぎではないでしょう。

 

私自身まんまとそれに乗せられ、煉獄杏寿郎に魅せられてしまった視聴者の一人です。

 

この映画がいまだ多くの人々の心を掴み続けているということ。

それはそのまま煉獄杏寿郎の強さや優しさが、人々の心を掴み続けているということでもあります。

 

 

なので、ここでは「煉獄杏寿郎」というキャラクターの魅力について自分なりに思ったことを書いていこうと思います。

 

 

 

 

・初登場では「柱」のセンター

 

テレビシリーズ22話で「柱」が初登場したシーンから。

個性的な風貌の面々の中にあって、隊服にマント、腰に日輪刀を帯び真正面から腕組みした姿はまさに「鬼殺隊の象徴」を思わせるものでした。

 

 

因みにこの時は、「鬼(炭治郎の妹・ネズコのこと)を庇う隊士など明らかに隊律違反。鬼もろとも斬首する」、と問答無用に炭治郎を斬ろうとします。

 

 

何故か常に発声が良く、笑顔。目線は仮面の如くどこを見ているのか不明。

視聴者にとっての第一印象はあまりいいものではなかったと思います。

 

劇場版での初シーンはひたすら駅弁を食べながら「うまい!うまい!」を連呼。

それでいて過去には斬首しようとした炭治郎に「俺の継子(柱直系の弟子みたいなもの)になるといい。面倒をみてやろう!」と兄貴キャラを全開。

 

はっきり言って「変な人」です。

 

これが映画が終わる頃には「熱く、強く、優しい人」という印象に変わることになるのですが、

その切っ掛けとなるのがエンムによって見せられた夢のシーンです。

 

 

・「人の弱さ」の隠喩として描かれた父・槇寿郎

 

 「下弦の壱」の鬼・エンムの血鬼術によって眠らされた杏寿郎は、夢の中で自宅の一室に正座しています。

目の前には背を向け横になっている父、槇寿郎の姿。

 

(ん?俺は何をしに来た?

…そうだ 父上へ報告だ  柱になったことを)

 

しかし報告を受けた槇寿郎は息子に背を向けたまま

 

「柱になったから何だ

くだらん…どうでもいい

どうせ 大したものにはなれないんだ

お前も 俺も」

 

と答えるのでした。

その姿に杏寿郎はショックを受けます。

 

廊下に出るとそこには弟・千寿郎がいて

 

「父上は喜んでくれましたか?

俺も柱になったら父上に認めてもらえるでしょうか」

 

と聞いてきます。

杏寿郎は思います。

 

(昔からああではなかった

鬼殺隊で柱にまでなった父だ

情熱のある人だったのに… 

 

ある日突然剣士をやめた  突然

あんなにも熱心に俺たちを育ててくれた人が 

なぜ

 

考えても仕方がないことは考えるな

千寿郎はもっと可哀想だろう

物心つく前に病死した母の記憶はほとんど無く

父はあの状態だ)

 

そして杏寿郎は膝を付き、弟の肩に手をかけて

 

「正直に言う  父上は喜んでくれなかった!

どうでもいいとのことだ 

しかし!

そんなことで俺の情熱はなくならない!

心の炎が消えることはない! 

俺は決して挫けない!

 

そして千寿郎 お前は俺とは違う!

お前には兄がいる 兄は弟を信じている

どんな道を歩んでもお前は立派な人間になる!

 

燃えるような情熱を胸に

頑張ろう!

頑張って生きて行こう!

寂しくとも!」

 

そう言い、弟を抱きしめます。

 

 

強いことは間違いないが変な人…

初登場からの視聴者が抱いた杏寿郎の人物像とは少し違う、

杏寿郎が抱える寂しさ、そして優しさが描かれたシーンでした。

 

 

と同時に、

父・槇寿郎に対しては多くの視聴者が 「弱い、情けない親父」 という印象も持ったのではないでしょうか?

 

 

この槇寿郎というキャラクターについては、10代20代の方は中々理解することは難しいかと思います。

しかし自分自身がその「親父」になってみると、槇寿郎の事が少しは理解できるようになります。

 

実際に格闘技や武道を経験している人なら想像しやすいのではないでしょうか?

例えるならこんな感じです。

 

長い年月稽古を続け、自分自身の体を痛めつけ、心身の研鑽を重ね、目標としていた段位を取った。

そしてその結果知ることになったのは、世の中には化け物みたいな奴がゴロゴロいるという現実だった。

 

自分自身が長い年月を掛けて辿り着いたと思っていた領域に、信じがたいことに「稽古を始めたばかり」という時点で到達している者が同じ道場内にいた。

(因みにこれと同旨の発言を原作の10巻あたりで「柱」の一人である 宇随天元 がしている。)

 

身内でさえそうなのに、外の人間は本物の化け物みたいな奴らだった。

すぐに自分の才能の限界を痛感した。

 

若い時は、それでも自分自身の可能性を信じることが出来た。強さを求め努力を重ねることが出来た。

 

しかし人間が肉体的に  ―そして悲しいことに精神的にも―  成長を続けることが出来る時間というのは余りにも短かった。

人生の半分にも満たないのだ。

 

年を重ねるごとにはっきりと自分自身が「衰えていく」くことが自覚できた。

これから先も「自分は衰え続ける」という事実を認識した。

それは「世の中には自分よりも強い人間が幾らでもいる」という事実などとは比較にならない位の

圧倒的な「絶望」だった。

 

気が付けば、かつては自分が稽古をつけていた後輩達の方が自分よりも強くなっていた。

 

そして「体力の限界を補う、気力の限界」(因みにこれは横綱 若乃花の引退時の口上です)を感じた頃、自分の支えだった伴侶を失った。

自分の中で心が折れる音が聞こえた。

一時期部屋に籠ったら、もう外に出れなくなっていた。

その後はすべての事がどうでもよくなった。

 

息子が段位を取った?

だからなんだというのだ。そんなものに一体何の意味があるんだ。

どうせ大したものにはなれない。

俺のように。

 

と、まあこんな所でしょう。

現実世界ではほとんどの場合、人は様々な段階で自らの限界と弱さに「納得」し、別の生き方を見つけていくものなのですが、

真面目に一つの道を追求し続けた人ほど心が折れた時の反動は大きいのかもしれません。

 

実際、槇寿郎が熱を失った理由については劇中では語られません。

人間の能力を遥かに超える「鬼」を前に、余りに多くの人の死を見続けた結果、己自身の不甲斐なさと、人間の能力の限界そのものに絶望を覚えたのかもしれません。

ただ、映画の後のストーリーによって「最愛の妻を失った」ことが切っ掛けであったことが語られています。

 

 

そしてここで重要なのは、

心の中を不完全燃焼で燻らせたまま時間を費やしている人間というのは、

真っすぐに前を見つめ情熱の炎を燃やしている人間とは正対して向き合えなくなってしまう。

ということです。

相手の事が煩わしく、説教臭く感じるのです。

例えそれが自分の息子であっても。

 

それを表すエピソードとして、映画のストーリーの後の原作コミックでは

杏寿郎の最期の言葉を伝えに来た炭治郎に対し槇寿郎は

「お前 俺たちのことを馬鹿にしているだろう」

と因縁をつけ喧嘩となり、

 

杏寿郎の言葉を伝えようとする千寿郎に対しても

「くだらん!!どうせ俺への恨み言だろう! わかりきっている! さっさと出ていけ!」

と怒鳴ります。

 

しかし千寿郎から杏寿郎の遺した最期の言葉が

 

『体を大切にして欲しい』

 

だったことを知り、一人になった時に杏寿郎の名を呼び泣くのでした。

 

 

そこには息子から「情けない父親」と見られているであろうことに、怖れと劣等感を感じていた父親の姿と、

息子と正面から向き合うことが出来なくなってしまった己を悔いる一人の人間の弱さが描かれています。

 

 

さて、

そもそもエンムが人間に見せる夢はその人にとって「幸せな夢」のはずです。

「幸せな夢」を見せることによって相手を骨抜きにし、その間に「精神の核」を破壊してしまう。

それがエンムの闘い方です。

 

であるならば、杏寿郎が見るべき夢は、まだ母が存命で槇寿郎も情熱に燃えていた頃のものであったはずです。

それが何故、上のような内容の夢が劇中登場したのかといえば、

いうまでもなくそれが後のストーリーへの重要な伏線になっているからです。

 

 

・「人の弱さ」に対する強大なアンチテーゼとして描かれた「上弦の参」アカザという鬼

 

死闘の末、「下弦の壱」エンムを破った炭治郎。

自らも重症を負い横たわる炭治郎に、杏寿郎は呼吸法による止血のアドバイスと労いの言葉を掛けます。

 

「呼吸を極めれば様々なことができるようになる。

何でもできるわけではないが

昨日の自分より確実に強い自分になれる。」

 

そう言って炭治郎に微笑みかける杏寿郎は非常に魅力的な兄貴分でした。

 

空が白み始める映像に視聴者が「戦いの終わり」を感じ、「炭治郎達が任務を達成したのだ」という余韻に浸り始める中

突如として雷号と共に「その鬼」は現れます。

 

両目には「上弦」「参」の文字。

 

(上弦の…参? どうして今ここに…)

 

炭治郎の疑問ならずとも、観客の心拍数を嫌が応にも上げます。

 

例えるならその衝撃たるや、ハーゴンを倒し喜んだのも束の間、禍々しい演出によって登場した 破壊神シドー かのようです。

(若い人には何のことか分からなかったらごめんなさい。シドーとはドラクエⅡのラスボスのことです。)

 

 

登場するや否や炭治郎に攻撃を仕掛ける「上弦の参」。

それを炎の呼吸の斬撃で撃退する杏寿郎。

鬼の傷は一瞬で治ってしまう。

 

ここからの二人のやりとりが個人的に一番好きです。

最後の闘いを前に淡々と会話を繰り広げる両者。

漂う「大物感」が半端なものではありません。

 

 

「なぜ手負いの者から狙うのか理解できない」

 

「会話の邪魔になるかと思った。俺とお前の。」

 

「君と俺が何の話をする? 初対面だが俺は既に君の事が嫌いだ。」

 

「そうか。俺も弱い人間が大嫌いだ。弱者を見ると虫唾が走る。」

 

「俺と君とでは物事の判断基準が違うようだ。」

 

「そうか、 では素晴らしい提案をしよう

お前も鬼にならないか?

 

「ならない」

 

「見れば解る お前の強さ 柱だな?

その闘気 練り上げられている 至高の領域に近い」

 

「俺は炎柱 煉獄杏寿郎だ」

 

「俺はアカザだ

杏寿郎  なぜお前が至高の領域に踏み入れないのか教えてやろう

 

人間だからだ

老いるからだ

死ぬからだ

 

鬼になろう杏寿郎

そうすれば 百年でも二百年でも鍛錬し続けられる

強くなれる」

 

これに対し杏寿郎が返す言葉がこの物語のテーマともいうべきものでした。

 

老いることも 死ぬことも 

人間という儚い生き物の美しさなのだ

 

老いるからこそ

死ぬからこそ 

たまらなく尊く  愛おしいのだ」

 

強さというものは 肉体に対してのみ使う言葉ではない

この少年は弱くない  侮辱するな

 

初めて登場した時の仮面のような笑顔は消え

そう語る杏寿郎の顔は、憂いと熱さを宿した漢のそれとなっていたのでした。

 

 

アカザは杏寿郎との戦闘中にも頻繁に語り掛けます。

 

「素晴らしき才能を持つ者が醜く衰えていく

俺はつらい

耐えられない」

 

「この素晴らしい反応速度!

この素晴らしい剣技も!

失われていくのだ 杏寿郎!

悲しくはないのか!!」

 

一連のアカザのセリフは、そのまま上記した槇寿郎の絶望と表裏一体をなすものでした。

 

どんな人間であっても老いる

醜く衰えていく

やがて全てが失われていき

そして死ぬ

 

それは武人に限らずとも、

全ての人間に共通していることです。

全ての人間が抱える「絶望」そのものです。

 

だから人間であることをやめよう、鬼になろう。

そう語り掛け続けるアカザは、まさに「人間が人間であるが故に抱える弱さ・絶望」に対する強大なアンチテーゼともいうべき存在でした。

 

 

・「人の弱さ」を全肯定し、人間としての尊厳を守るために闘った杏寿郎

 

「(人間は老いと共に才能が失われていく事を) 杏寿郎 悲しくはないのか!!」

 

闘いながらそう問いかけるアカザに

 

「誰もがそうだ 人間なら!!

当然のことだ!!」

 

そう返答する杏寿郎。

この会話は少し違和感を感じます。

 

既に人間であることを放棄しているアカザに

「人間なら誰もがそうなのだ!!」と返しても彼からは「だからその人間をやめようと俺は言っている!」と返されるだけです。

しかしこの会話はこれで劇中では成立しています。

 

つまりこのシーンのアカザのセリフも、杏寿郎のセリフも

会話の形をとっていますが、その実は「人間に対して」発せられているのです。

 

それは言うまでもなく、読者なり観客のことです。

 

 

アカザの言葉は実は全て正論です。

 

人は老いる。

死ぬ。

どんな才能も失われる。

悲しい。

つらい。

耐えられない。

 

反論できません。その通りです。

 

しかしだからと言って、現実に人は鬼になれますでしょうか?

老いることから、死ぬことから、

逃れることができるのでしょうか?

そんなはずがありません。

 

人間はあくまで人間です。

必ず老いて

衰えて

死にます。

 

それに対し杏寿郎の言葉は

「人間であれば誰もがそうなのだ。当然のことなのだ。」

と断じつつも

 

「それが人間の美しさなのだ」

「人生とは儚くとも、だからこそ、堪らなく尊く、愛おしいのだ」

 

と言い切り、「人間が人間であるが故に抱く絶望」を全肯定するのです。

 

そして「強さとは肉体に対してのみ使う言葉ではない」、と語ることによって

人にとって大切なのは「強くあろうとする心」なのだと、見る人に訴えかけているのです。

 

 

杏寿郎の言っていることはアカザの正論に比べれば、美しいだけの空論でしかないのかもしれません。

 

しかしこの映画を見た人は、杏寿郎のその言葉と、重症を負いながらも鬼になることを拒み「人間としての尊厳」を失わずに闘い続ける『強さ(そしてその「強さ」とは前述のように肉体的なことのみを指していない)』に、

激しく心を揺り動かされ、自分自身の気持ちが奮い立つのを感じたのではないかと、私は思うのです。

 

 

杏寿郎とアカザ。

映画の最後において展開された両者の闘いは

「人間の弱さ」に対する強大なアンチテーゼと、「人間の弱さ」を受け入れそれを守ろうとする者との闘いという図式があったのでした。

 

 

・「俺は信じる。君たちを信じる。」に込められたメッセージ

 

両者の闘いはまさに大作映画のクライマックスを飾るに相応しい映像美と興奮に満ちたものでした。

その様子は是非劇場で確認していただきたいと思います。

 

私が特に印象に残ったシーンは、

昇る陽光に対し、それまでは余裕の表情を崩すことのなかったアカザが真剣に焦りと恐怖の表情と声を発する場面。

そして少しでも陽の当らない場所に逃げようとするアカザを炭治郎が必死に追いかけ

 

「逃げるな卑怯者!!

 

いつだって鬼殺隊はお前らに有利な夜の闇の中で戦っているんだ!!

生身の人間がだ!!

傷だって簡単には塞がらない!!

失った手足が戻ることもない!!

逃げるな馬鹿野郎!!馬鹿野郎!!

卑怯者!!

 

お前なんかより

煉獄さんの方がずっと凄いんだ!!

強いんだ!!

 

煉獄さんは負けてない!!

誰も死なせなかった!!

戦い抜いた!!

守り抜いた!!

 

お前の負けだ!!

煉獄さんの  勝ちだ!!

 

うああああああああああああああ!!!」

 

と号泣するシーンでした。

 

 

闘いに力尽き、地に両膝をついていた杏寿郎は

炭治郎のその様子に少し驚いたような表情をし、そして優しく微笑みながら

 

「もうそんなに叫ぶんじゃない

腹の傷が開く  君も軽傷じゃないんだ

 

竈門少年が死んでしまったら 俺の負けになってしまうぞ」

 

と言います。

 

 

そして、

 

「こっちにおいで 最後に少し話をしよう」

 

から続く、杏寿郎の最期のシーンこそが、

本作を「日本で最もヒットすることになる映画」たらしめたものであったと、私は信じています。

 

 

杏寿郎の多量の出血に、「もういいですから 呼吸で止血してください…。傷をふさぐ方法はないですか?」と泣く炭治郎に

「ない。俺はもうすぐ死ぬ。喋れるうちに喋ってしまうから聞いてくれ。」と答え、弟と父に対する遺言を

 

そして過去に炭治郎と妹・ネズコを斬首しようとしたことがあったことについて

 

「それから 竈門少年

俺は君の妹を信じる

鬼殺隊の一員として認める

 

汽車の中であの少女が血を流しながら人間を守るのを見た

命をかけて鬼と戦い 人を守るものは

誰が何と言おうと鬼殺隊の一員だ

 

胸を張って生きろ」

 

と伝えます。

 

そして最後に

 

己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと

心を燃やせ

歯を喰いしばって前を向け

 

君が足を止めて蹲(うずくま)っても

時間の流れは止まってくれない

共に寄り添って悲しんではくれない

 

俺がここで死ぬことは気にするな

柱ならば 後輩の盾となるのは当然だ

柱ならば 誰であっても同じことをする 

若い芽は摘ませない

 

竈門少年

 

もっともっと成長しろ

そして今度は君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ

 

俺は信じる

君たちを信じる

 

というエールを送るのでした。

 

それは炭治郎に対して発せられたセリフでしたが、

間違いなく「スクリーンの向こう側」にいる全ての人達へ送られた力強いエールであったと私には感じられます。

見る人全ての心に届き、突き刺さった想いであったと、私には感じられました。

 

これについては参議院議員 音喜多駿氏の下記のブログが興味深かったです。

煉獄さん20歳、竈門炭治郎14歳(15歳?)…政界と真逆?!後輩の盾となり犠牲になる美学 (blogos.com)

 

音喜多議員は、杏寿郎の「後輩の盾になるのは当然だ」「若い芽は摘ませない」というセリフで「涙腺が崩壊」し、

「翻って政治の世界は、完全な年功序列でこうした世界観・価値観とは真逆の世界」と嘆いています。

 

このように現役の国会議員にも杏寿郎の想いが届いているということは注目に値することです。

 

 

 

最後まで話し終えると、杏寿郎は炭治郎の後方離れた場所に母の幻を見つけます。

 

かつて病床の床において、幼き頃の杏寿郎に対し

 

「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です

責任をもって果たさなければならない使命なのです」

 

そのように語って聞かせ、その後に彼を抱き寄せ

 

「私はもう長く生きられません。

強く優しい子の母になれて幸せでした」

 

と泣いた人でした。

 

杏寿郎はその母に語り掛けます。

 

―母上

俺はちゃんとやれただろうか

やるべきこと 果たすべきことを

全うできましたか?

 

と。

 

そして

 

立派に

できましたよ

 

そう微笑む母の姿に

杏寿郎は劇中において最も美しく笑って

そして逝くのでした。

 

多くの映像美、名シーン、名セリフが描かれた本作の中にあって

このシーンがダントツの美しさであったことはいうまでもありません。

 

 

煉獄杏寿郎というキャラクターは、主人公の炭治郎にとって

 

誰よりも強く

優しく

高潔で

そして儚い

 

そういう存在でした。

 

 

人によってはそれを「説教臭い」と感じた人もいたようです。

これじゃあ男もしんどくない?「鬼滅の刃」の男女観 | メディア万華鏡 | 山田道子 | 毎日新聞「経済プレミア」 (mainichi.jp)

 

前述の槇寿郎の部分でも書きましたが、私達の年代やそれ以上の年代になってくると、

やたら「熱さ」を前面に出してくるストーリーというのは、「煩わしく」「説教臭く」感じるようになってくるものです。

 

そうでなくとも人は年をとると、感受性が劣化してしまって社会の事象について否定する方向からでしか表現することが出来なくなってくるものです。

それは仕方のないことです。

 

 

しかしその反面で、事実としてこの作品を見て「面白い」と感じた人は多くいますし、

その理由として、煉獄杏寿郎というキャラが魅力的であったと答える人も間違いなく多くいたのです。

 

それはつまり、杏寿郎の上で挙げたような特徴が、人々の「理想」とする姿と重なったからなのではないでしょうか?

 

若い青少年は杏寿郎というキャラに、「理想の先輩」「理想の上司」を重ねたのではないでしょうか?

 

或いは男性であれば「自分もこういう人物でありたい」と感じたのではないでしょうか?

困難に怯むことなく強くありたいと、人に対して優しくありたいと、

そう感じたからなのではないでしょうか?

 

この映画のストーリーを書いた原作者の想い、映画を創り上げた人達の想いが

見る人の心に届き、そして見る人もまたその想いを受け取ったからなのではないでしょうか?

 

私はそうだろうと、考えています。

 

 

・主題歌「炎」は杏寿郎への鎮魂歌!?

 

最後になりますが、

この映画の主題歌であるLiSAの「炎(ほむら)」。

今更ながらに、映画の雰囲気にピッタリと合った名曲だと思います。

 

その歌詞のサビ部分では以下のような言葉が登場します。

 

 

「強くなりたいと 願い泣いた

決意を餞(はなむけ)に」

 

「悲しみに飲まれ落ちてしまえば

痛みを感じなくなるけれど

君の言葉 君の願い

僕は守り抜くと誓ったんだ」

 

「託された幸せと 約束を超えて行く

振り返らずに進むから 前だけ向いて叫ぶから

心に炎(ほむら)を灯して

遠い未来まで…」

 

 

エンディングで流れるこの曲は、

まるで杏寿郎の最期のメッセージに炭治郎が答えているかのようです。

 

非常に美しい曲で、映画とともにこの曲もヒットしていることをファンの一人として、

とても嬉しく思います。