6月5日は普段とは違ってスポーツ紙の一面トップから。
他の一般紙もトップでこそないもの、一面にこのニュースを配しており
(一面トップ記事は各紙バラバラであったこともあり)
間違いなく「6月4日に起こった一番のニュース」であったといえると思います。


―世界に数多くある格闘技とそのチャンピオンの中で、『世界最強』は一体誰か?-
格闘技に興味のある人なら、誰しもが考え、
格闘技好きな人が集まってこの話題を始めたら、軽く一昼夜は過ぎ去ってしまうであろう
そんな命題があります。


しかし1960~70年代には、
そんな命題は存在しませんでした。
いや、あったかもしれませんがそれは余程マニアックな問いかけだったでしょう。

論ずるまでもなし。
モハメド・アリ以外ありえなかったのですから。

おそらくは今でも
「長い歴史の中で最強のボクサーは誰か」
という命題で、必ず上位に名が挙がる事でしょう。




―ボクシング世界ヘビー級チャンピオンこそが世界最強でありキング・オブ・スポーツ-

現在のようにボクシングの世界チャンピオンが乱立していなかった時代では
上の言葉はもはや既成概念と言っていいものでした。

それは単にヘビー級ボクサーが肉体的に強いというだけでなく
興行的にも、一夜の興行で100万ドル単位(円に直せば「億」単位)のカネが動くスポーツなど他に存在せず、
いうなればビジネスの観点からもボクシング世界ヘビー級チャンピオンは「最強」の存在であり、人々に熱狂と興奮を与える存在だったのです。

(それは例えばプロレスのチャンピオンが挑戦を表明したところで、全く世間からは相手にされないレベルだった)



その時代にあって、モハメド・アリは
「ザ・グレーテスト」
「人類の王者」
と称された人物でした。
(大体、最初は自分で言っていたのだが)

彼はヘビー級でありながら中軽量級並のフットワークとパンチスピードを誇り、
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」
というそのファイトスタイルはその後のボクサー、格闘家に極めて大きな影響を与えました。

リング外においても、常に大言壮語
試合前には相手を過度に挑発し、KOラウンドまでも予告するビッグマウスは
強烈なアンチを産みはしましたが、逆にそれが彼の試合が世間の注目を受け、興行を盛り上げる要因ともなりました。
こちらも現在は珍しくないものとなりました。


しかしながら、
モハメド・アリが引退して40年経った今尚、「偉大な人物」と称され
全てのボクサー・格闘家、さらにはスポーツの垣根を越えて多くの人々から尊敬を受けているのは
彼が、リング外でも「時代」と「人種の壁」と戦ったからでした。

デビュー前、1960年ローマオリンピックで金メダルを獲り
アメリカに帰国後、得意満面でレストランに入るも、黒人であることから食事の提供を拒否され
出店後、金メダルを川に投げ捨てたという逸話があります。
奴隷制は無くなったとはいえ、根強くアメリカ社会に残る人種差別を
アリは強く憎悪していました。

プロボクシングで世界ヘビー級チャンピオンとなり、絶大な強さを誇っていながら
ベトナム戦争で
「なぜ白人が始めた戦争で、黒人の俺が罪もない有色人種の頭上に爆弾を落とす必要があるんだ」
「他人を殺す戦争より、刑務所へ行くことを選ぶ」
と発言し徴兵(当時は存在していた)を拒否。
以前から黒人人権活動を行っていたことから、その言動は当時の米国政府や白人保守派との深刻な対立をもたらし、アメリカ政府はアリのプロボクシングライセンスと世界王座を剥奪、(裁判では罰金刑を課せられる)
その結果、アリは24歳からの3年半以上という、プロボクサーとしては全盛期をリングから遠ざかり、政府との法廷闘争で費やすことになります。

やがてベトナム戦争の戦況悪化から、アメリカ国内では反戦運動が高まり
アリのリング外での戦いは若者を中心に強い支持を受け
1970年、最高裁では徴兵拒否に関し無罪判決を得ることなります。

そこから4年後の1974年、32歳となったアリは、当時26歳で「象をも殴り殺す」と言われたジョージ・フォワマンから世界王座を奪還。
戦前予測は圧倒的不利、
8ラウンド終了間際までロープを背負い防戦するも、相手の打ち疲れを狙った連打によってフォアマンをマットに沈めたKO劇は「キンシャサの奇跡」と呼ばれ、今なおボクシング史に残る伝説のKO勝利とされています(因みに動画を見るとレフェリーのカウントが異常に速かったりするのだが)。

その後も78年には36歳にして3度目の戴冠。
いつしか、彼が自らをビッグマウスによって称していた「ザ・グレーテスト」は
他者からの尊称として定着することになっていました。


日本でアントニオ猪木と異種格闘技を行ったのはこの時期1976年の6月26日。
アントニオ猪木はアリと戦ったことによって、世界的な知名度を得ることになり
今も「世界のどこに行っても『アリと戦った男』との説明を受けると、相手は姿勢を正す」と発言しています。
それだけモハメド・アリの名前は世界に通じる「偉大な」名前なのです。

因みに、
アリ・猪木戦は、アリが猪木に対し無茶なルールを強要したせいで「世紀の凡戦」と言われるに至ったわけですが

あれはアリに同情すべきで、アリの中では
「『新日本プロレス』という、日本の1プロレス興行会社の興行のメインで
『世界のアリが(あくまで)プロレスをやる』」
つもりで来日したのに、
試合の数日前になって
「それで、いつリハーサルをするんだ?」と聞いたら
「NO、これは『セメントマッチ』だ」
「Σ(゚Д゚)!!バカ言ってんじゃねーよ!聞いてねーよそんな話!
異種格闘技戦なんて、やったことねーし、そんな練習なんて全然してねーし
何より、俺は3カ月後には防衛戦が控えてるんだぞ!?
やったことない異種格闘技なんてやって怪我したらどうすんだよ。
(実際、足を蹴られ過ぎて血栓症を起こし、それがアリの選手生命を縮めたとさえ言われている)
防衛戦が出来なくなったらスゲー額の損失が発生するんだぞ!
やるわけねーだろそんな試合!
そんなんだったら帰るに決まってるだろ」
となったわけですから。
それで猪木が「どんなルールになっても構わないから、とにかく試合を実現させろ」
と言って、あういうルールになったんです。

結果としては、
あの試合の存在がその後のアントニオ猪木の人生のみならず
その後の新日本プロレスの「ストロングスタイル路線」、そこから派生していく「UWF」、
「PRIDE」という総合格闘技へと影響を及ぼしていくのですから
本当に日本の格闘技界にとっても絶大な影響を及ぼした人だったのだなと思います。


引退後のアリは
パーキンソン病を患い、公衆の前に現れた時には、表情が動かず手の震えなどが目立ちましたが、それでも尚、
その存在感は「グレーテスト」に恥じぬものであったと私は思います。


最後にアリの残した言葉を引用して終わります。
「不可能とは、自分の力で世界を切り開くことを放棄した臆病者の言葉だ。
不可能とは、現状に甘んじるための言い訳にすぎない。
不可能とは、事実ですらなく、単なる先入観だ。
不可能とは、誰かに決めつけられることではない。
不可能とは、可能性だ。不可能とは、通過点だ。
不可能なんてありえない。」

「王者の中の王者」
モハメド・アリはまさにリング内のみならず世界の不可能と言われる事象と戦った人物でありました。
「死して尚人は名を遺す」
『ザ・グレーテスト』モハメド・アリは
間違いなく歴史的英雄として、
人々の記憶の中にその名を遺し
生き続けることとなるのです。