俳優ユ・アインはいつもよどみない。
おかげでSNS上の論争などの色々な余波を体験することもした。
ユ・アインはいかなる現象にあって最も先頭に立って声を出す人物で現れたりもする。
だが、それは多少誤解だ。
ユ・アインはただ自身の多様な感情を率直に認めて受け入れる。
それが片側に偏った時はバランスを取るために努力する。
その過程で刃を研ぐ時もあって、限りなく忍耐する時もある。
そのように見て良い人生、努めてみる人生に向かって歩いていくところだ。
自身の人生に対して方向を定めて静かでわびしく進むというのは、
良い演技者になる元肥であるところだ。
俳優ユ・アインはくやしい時もある。
演技よりは他のイシューで照明受ける時がある。
だが、それは彼の演技に他の異議を提起することがないという意もなる。
それだけ彼は良い演技を私たちにプレゼントしている。
映画‘国家不渡りの日’もそうした。
ユ・アインは‘国家不渡りの日’でIMFの苦難の中でその危機を利用して、
自身の利益を取りまとめた‘ユン・ジョンハク’を演技した。
ある者は彼を嫌悪するだろうし、また他の誰かは男にこっそりと共感するキャラクターだ。
見る人ごとに複雑な共感を起こさなければならない役割、
ユ・アインはこれを十分にやり遂げた。
‘国家不渡りの日’で熱演したユ・アインとソウル、鍾路区(チョンノグ)、
八判洞(パルパンドン)のあるカフェで会った。
特有の長くて派手な弁舌を満喫できた、楽しかった時間をこの席に伝える。
釜山(プサン)映画祭当時発言が話題になった。
“自信がある”という話であったのに、
今振り返ってみれば正確な単語選択であったかは分からない。
事実作品に参加した一員として満足だという表現だったようだ。
何がそんなに満足だったのだろうか?
バランスが本当に良い。
絶対的な基準で見ようというのではない。
私たちの映画の状況、キャスティングや現実条件などを考慮した時、
その中でよくくみ上げた作品のようだ。
‘国家不渡りの日’を選択した理由は?
IMFという現代史は共感を導くのに十分な素材だ。
どんな階層にあろうが、どんなアイデンティティを有していた、
この時期を生きていくならば誰でも共感できる話であった。
多分‘お金’に対してクエスチョンマークを投げてみた人ならば、
誰でも自分の人生に対し遠回しに言って見ることができる作品だと考える。
私は相変らず新人同じ気持ちで生きているけれど、
作品選択には私の意志が溶け合っていると考える。
俳優として先に立ったり注目されているよりはただ良い作品に私の席を、
消化したいという気持ちで臨む。
ただむかつくほど消化するということは違う。
作品に寄与したい気持ちで選択するようだ。
‘国家不渡りの日’には演技の他にどんな部分の寄与があるのか?
私と動勢対、あるいはさらに幼い世代にIMF危機を伝えるにあたって、
何かの役割があること同じだった。
非常に重くて、落ち着いていて、真剣な話だ。
だが、ユン・ジョンハクという人物は英雄でもなくて、傍観者でもない。
かえって欲望を代入させるアズー現実的なキャラクターだ。
そのような地点が今世代の友達にこの話を伝えることができる出発点になると考えた。
前作‘バーニング’と全く違ったきめだ。
本来‘バーニング’を終了して入るスケジュールだった。
だが、スケジュールが変わって‘バーニング’の余韻が終わる前に参加したようだ。
役割から抜け出て出るのに次の作品に没頭するのに邪魔されるのはなかった。
ただし現場に適応するのに時間がかかった。
イ・チャンドン監督様の現場は大韓民国で唯一無二な現場のようだ。
本当に私をムジェンヘジェさせた。
裸になってしまった経験だった。
そんなにそれなりの瞬発力を育てたと考えたが、普遍的な環境ですぐに投入された。
その感覚を再び生かそうとすれば初めての撮影に本当に多くのNGを出した。
しかたなく二番目撮影は一日先送りしてほしいと要請した。
練習がさらに必要だった。
もしそうともできないならば本当に不誠実な俳優になる状況だった。
どんな撮影であったか?
初めての灯皿シーンだった。
新入社員前で私が色々な説明をして、いたずらをする場面だ。
セリフが長い場面もしなかったが、容易ではなかった。
はやい呼吸の下効率的に戻る現場に反応するのが容易でなかった。
‘まだ私はそのような水準の俳優ではないね’という反省をして撮影に臨んだ。
練習もたくさんした。
私の周辺に各種の友達を呼んで演説をしてみることもした。
友達はどんな友達であろうか?
称賛に厚い方? あるいは苛酷な方?
とても刃のようだ、ハハ。
“大丈夫だがより新鮮にしてみて”、“少しだけ違ってしてみて”、
“とても明らかだけど? 違った感じはない?”このような形だ。
“上手にする上手にする”、“ウチュチュ”する友達があまりない。
より良い演技をするように願う心であったが、明らかに私にはストレスであった、ハハ。
その誰より冷静な友達だ。
だが、おかげで助けはなったようだ。
ユン・ジョンハクは阿鼻地獄の中でも機会をつかむひどく現実的なキャラクターだ。
共感するのが容易でなかったようだ。
私の心の中でくみ上げたようだ。
私もやはり日和見主義者の容貌がある。
のがすよりは握りたくて、失うよりは持ちたい。
そのような心の選択をして生きていく時、全て幸せだったり愉快なことはない。
罪悪感が入る時もあって、後悔もあって、悔恨が入る時もある。
‘私が元気に暮らしているか’という悩む。
土地を買えば二倍に上がるのに生きない人がどこにいようか?
それは買わなければ愚かな人取り扱いを受ける。
そのような社会と闘争したいという心も入れてみた。
良い暮らしをすることに対する他の意味を伝えたかった。
色々気持ちを込めたし、それを共感する席を作りたかった。
それでも二重定規を見せる。
リュ・ドックァンさんが演技したキャラクターに余計な腹いせもする。
ユン・ジョンハクにも罪悪感があることだ。
その状況に怒りぽっくなったことだ。
一つの国民で国をその状況で作った権力者に怒ったことだ。
お金を追う現実と罪悪感の間に立っているユン・ジョンハクの心理を表現するようだ。
事実経済危機はいつもあった。
形態が違うだけだ。
政治的、国家的危機の中に緊迫するように繰り広げられる状況だった。
そのような状況に感じる虚しさと怒りの表出だし、それでさらに目覚めた目で、
世の中を眺めて、だまされなくて私の人生を導くという確約も見せたようだ。
リュ・ドックァンさんを殴って二種類を要求する。
“ぞんざいな言葉するな、そして金を儲けたと好きにするな”
観客に小さいけれど響きを与えることができたセリフだと見る。
その上にユン・ジョンハクが正当性を持つのは、
結局その状況を打開できるのは誰もいなかったためだ。
‘国家不渡りの日’もやはり同じだ。
問題提起ができるが、明確な解決方案がない。
それで無力感が入る。
ただし疑問を持つならば、それを冷遇しないで向き合う時より、
良い明日を行くことという希望を伝えたい。
そして何よりその時期を生きてきた既成世代を理解できる側面を提示すると見る。
今生活が苦しい青年層は既成世代に対する願望を有していることもできる。
だが、今の既成世代がどんな方法で今の形態を成し遂げることになったかを、
伝えることができたと見る。
ふと気がかりだ。
ユ・アインはユン・ジョンハクのようにチェテックに強いだろうか?
ハハ、全く強くない。
チェテックもしない。
おかげで今回の演技のために経済ニュースをたくさん訪れてみた。
おりしもビットコインが話題になった時期であった。
そのニュースに人々の心がオルラク ネリラクするのが軽く感じられなかった。
事業もしているけれど。
4年前ぐらいスタジオ コンクリートを始めた。
同僚とパートナーを引き込んでした独特の事業だ。
皆元気に暮らしているようだ、ハハ。
主演で名前をあげたキム・ヘス-ホ・ジュノ-チョ・ウジンと違った舞台で、
活躍するのに互いに向き合うことがなかった。
キム・ヘス先輩インタビューを見るので、
“アインが孤独だったようだ”とするのに全く孤独でなかった。
ソン・ヨンチャン先輩はすでに三回目に会って一緒にした。
トクァンさんも必ず会いたかった、私が新人である時私よりさらに成就を成し遂げて、
若い俳優の情熱を見せた俳優。
特に‘天下壮士マドンナ’のような作品をとても憧れた。
互いに助けながらインスピレーションを受けた。
年齢も一歳差の外に出ないのにものすごく行儀よくした。
私が運営するギャラリーにも遊びにきて、おもしろく作業した。
現場で眺めた先輩たちはどうだったのだろうか?
本当にプロフェッショナルだ。
キム・ヘス先輩は本当に内面空白が感じられた。
また他の次元のエネルギーと能力を見せられた。
ホ・ジュノ先輩は場合には存在自体が作る感情がある。
何の話をしなくても人物で感じられる感情だ。
チョ・ウジン先輩は本当に鋭い。
本当に鋭利だ。
表現の形態が繊細で明確だ。
繊細だ、明確だ。
共感することができること同じだ。
皆なじみがうすい俳優がいないから、
また他の人物を見せる効果自体が驚くべきだったようだ。
もし現場で先輩たちの演技を明確に見たとすれば、かえってさらに心配して、
不必要な緊張もしたようだ。
存在だけ感じて適当な緊張を持って演技をしたのがテハクを描くのに、
さらに助けになったようだ。
あの程度の経歴を持っている俳優のうちそれくらい多様な先輩と、
呼吸を合わせた俳優も珍しいようだ。
おかげで私だけの方式ができた。
今度はどうせ互いに衝突するのではない私の行く道を行く、
マイウェイキャラクターだったためにさらに簡単に行くことができたようだ。
歳月の流れを描いて老いた扮装をしなければならなかったが、
唯一ユン・ジョンハクだけ顔が老いなかった。
‘やはりお金の力が良いことなのか?’として笑った。
‘六龍が飛ぶ’時も多くの歳月の流れを表現してみたことがあるが、
私の力だけでは大変な部分ということを感じた。
だが、そのようなリスクにも歳月の間隙を表現しなければならない瞬間がある。
‘サド’時もぎこちないのが感じられて編集をする、中ある多義論争があった。
老いることを表現するのがあって扮装、演技、演出などリアリティーを、
生かすというのは難しい部分だ。
CG技術が発達したにもかかわらずまだ存在する韓国映画の宿題だと見る。