"ああ、私がまた、このようにつまらない話をしていますね。

これで私がインタビューをしないとしました"

俳優ハン・ソッキュにインタビューはいつも難しい席であった。

自身を'つまらない人'と話した彼は度々重い話を取り出すことになると、

インタビューの中間ごとに自ら叱責した。

それに彼と比較すればずいぶん幼い記者だがこういう話をしてあげたかった。

ゴシップ性記事から自由でない芸能媒体記者たちも時々は深みある対話と、

落ち着いている悩みに心が動く時があると。

俳優ハン・ソッキュの根が深い悩みが記者にそのように近づいた。

1990年代韓国映画ルネサンスの中心にはハン・ソッキュがいた。

現在の忠武路(チュンムロ)の大勢がハ・ジョンウという俳優、

過去にはハン・ソッキュが忠武路(チュンムロ)を支配したようなものだ。

今は世界的な巨匠になった イ・チャンドン監督のデビュー作、

'グリーンフィッシュ'(1997)、

韓国メロー映画の傑作ホ・ジノ監督の'8月のクリスマス'(1998)、

韓国型ブロックバスター映画の最初格であるカン・チェギュ監督の、

'シュリ'(1998)のような一時代の一線を引いた作品には、

間違いなくハン・ソッキュが共にした。

しかしハン・ソッキュにも浮沈はあった。

2000年代に入り込みながらハン・ソッキュの映画は、

大衆と幅広く疎通できなかっ たし、作品数も減った。

その間ソン・ガンホ、ソル・キョング、キム・ユンソクなどの俳優が、

ハン・ソッキュの席を分け合った。


彼は2~3年に一編という格好で映画を発表したが、

最近何年間は目立つ作品はなかった。

しかし2011年SBSドラマ'根強い木'でテレビ劇場に、

'世宗大王(セジョンデワン)症候群'を起こすと今年は'ベルリン'と'パパロティ'を、

ひきつづき発表して忠武路(チュンムロ)で確実な復活を知らせている。

'パパロティ'は天賦的才能を持った声楽の天才でありごろつきである、

‘チャンホ’(イ・ジェフン)が大きいお兄さんより恐ろしくて艶がない音楽先生、

‘サンジン’(ハン・ソッキュ)に会って繰り広げられる話を描いた作品だ。

ハン・ソッキュは今回の映画で音楽先生'サンジン'役で熱演を広げた。

'ベルリン'でハ・ジョンウ、リュ・スンボム、チョン・ジヒョンの後を支えて、

一歩後退していたハン・ソッキュが'パパロティ'では劇を引っ張っていって、

感動的な好演を広げた。

また他の主人公であるイ・ジェフンが入隊後封切りする悪材料をむかえたが、

最近'パパロティ'はうわさの終わりに100万人の観客を突破した。

ハン・ソッキュがこの映画を選択し たことはEBSでみた、

ドキュメンタリーが契機になった。

彼は、

"ある日学校暴力を素材にしたドキュメンタリーを見るのに、

見る終始苦しさをたくさん感じた。

また、既成世代としていろいろ考えになったよ。

私がすることで苦痛を受ける子供たちを慰労してみたかった。

'パパロティ'は先生と弟子の話だけでなく私が好む音楽も、

重要な部分を占める映画とより一層魅力的だった"

と話した。

ハン・ソッキュが映画を選択するに当たり最も重要だと考える要素は話だ。

彼は、

"観客に何の話をしようとするかが重要だ。

話の力がありながらも人物中心に解いていく映画があるならば、

それが最も良い"

とした。

そうした点で実話を基に感動を映画'パパロティ'と'サンジン'という、

立体的キャラクターはハン・ソッキュの心を動かすこと充分だった。


"'サンジン'は演技できる幅が広いキャラクターであった。

シナリオを見る瞬間'としたい'という気がしたよ。

夢をなくした人が才能ある弟子を見ながらうれしいだけではなかっただろう。

嫉妬の感情と同時に東京の心も起こったはずなのに、

'その時あの人の心情はどうだろうか'という考えながら演技をした"

'ベルリン'がハン・ソッキュの映画だったかという質問には、

ほとんどの首をかしげるだろうが、

'パパロティ'がハン・ソッキュの映画というところには異論がないだろう。

ハン・ソッキュは今回の映画で劇を完全に掌握した。

映画中盤まで気難しい演技で笑いを刺激して、

後半部入る誰でもほしい気立て暖かい先生で観客の心を動かした。

声楽に天才的な才能を持った'チャンホ'で出演したイ・ジェフンが、

lip syncのために途方もない苦労しなければならなかったとすれば、

ハン・ソッキュはピアノを演奏するシーンのために少なくない、

悩まなければならなかった。

'リアリティーを生かす演技'と'人物の感情を見せる劇的な演技'間での話だ。

"ピアノを弾けない。

2,3ヶ月で習えばできることでもないので、

'うまく弾くように見える'演技で補完しなければならなかった。

映画で(イ)ジェフンの歌に伴奏をいれるシーンがたくさん登場するのに、

各シーンごとにそれぞれ違った感情を入れようと努力した。

特に後半部'四巡配りますよ'を伴奏する時はサンジンの劇的な心情を、

表わさなければならなかった。

それで演奏をしながらもアクションをたくさん入れた。

実際のピアニストが見ればちょっと笑わせることだ。

リアリティーは落ちるだろうが、人物の感情をアクションで見せてあげたかった"

ハン・ソッキュは最近ソン・チュンギ('根強い木')、ハ・ジョンウ('ベルリン')、

イ・ジェフン('パパロティ')等若い俳優らとひきつづき作品をした。

世代が違う俳優との作業は彼に新鮮な活力を吹き込んでくれた。


"三倍泣く演技スタイルと強みがみな違う。

そのために直接的な比較は難しい。

撮影会場で後輩に演技に対する助言のようなものを直接しはしない。

ただし'君はどのように演技をすることになったの?'

のような質問をたくさん投げる。

各自の理由がおもしろい。

それと共に自らに'出た演技を何故するだろう?'としばしば尋ねる"

ハン・ソッキュが後輩に'演技をすることになった契機'、'演技をする理由'等と、

同じ原則的な質問をたくさん投げるのは俳優との職業はやむをえず、

浮沈を体験するためとのことだ。

彼は、

"演技は俳優に喜びをもあたえるがそれだけ苦痛をもあたえる。

その過程を勝ち抜くことが演技だ。

後輩に疲れずに二つの質問の答えを探すために着実に、

忍耐心を持って努力しろと話す"

とした。

後輩に引き続き情熱を強調する理由はその自らが演技に対する、

恐れを持った瞬間があったためだ。

ハン・ソッキュは自身の長い間の慢性病である腰疾患を言及した。

"一時は演技することに恐れが全くなかった。

ところである瞬間恐ろしかったよ。

最も大きい理由はからだをケガした。

軍隊で腰を手術した後慢性病になった。

手術して出て全快になったと思ったが2002年'二重スパイ'を撮影しながら、

ケガして同じ部位をまた、手術した。

20代には完治まで3年かかったが40代には5年は超えてかかりそうだったよ。

それと共に演技に対する恐れができた。

その時非常に大変だった"

ハン・ソッキュは大変だったその記憶を思い出させて、

"それを勝ち抜くことができなかったとすれば、

今まで俳優生活をできなかっただろう。

幸い忍耐心を持って苦痛が過ぎ去るのを待ったようだ"

と過ぎた時間を回想した。


その過程で'演技を何故するか'に対する答も得ることができた。

ハン・ソッキュは、

"過去には観客に何を感じるようにしようと演技をすることができたのではなく、

ひたすら私が感じるために演技をしたことを悟った。

俳優を夢見るようにするのは観客なのにそれを忘れていた。

それを知って分からなくては私にはものすごい差だ"

と話した。

ハン・ソッキュは再び 呼吸を合わせたい俳優でチェ・ミンシクを挙げた。

東国(トングク)大学校演劇映画科先後輩の間である二人は、

1990年代ドラマ'ソウルの月'(1994)と映画'シュリ'(1998)で、

幻想の演技呼吸を自慢した。

"懇意な先輩だがしばしば見られない。

ハリウッドの名俳優アルパチノとロバート・デニーロも三編の映画の外に、

一緒にすることができなかった。

その上に'ヒット'以後には作品自体が良くなく二人の演技アンサンブルが、

引き立って見えることもなかった。

いつか(チェ)ミンシク兄さんと良い作品を通じて、

もう一度呼吸を合わせてみたい。

そのような映画を待っている"

演技生活18年の間ハン・ソッキュは約20編の作品をした。

平均を出してみれば1年に一方はしたわけだ。

だが、観客にハン・ソッキュの演技はいつもひもじい。

今後私たちはスクリーンでハン・ソッキュの演技を、

さらに頻繁に見ることができるだろうか。

彼に尋ねた。

"多くの作品をしたい。

俳優40代から演技に目を開くといったのに今からはたくさんしなくちゃ。

'パパロティ'が20回目の映画なのに今後私が何作の作品を、

もっとすることができるかと思う。

20編はもっとすることができるだろうか。

いやできないこともできる。

なのでもっと上手くやらなくちゃ"

ハン・ソッキュはもしかしたら演技をする最後の日までもこのように、

演技の反省文を書くかも知れないという気がした。

デビュー20年、演技が日常になるほど慣れた俳優が毎日毎日このように、

切なる反省文を書くという事実は驚異的でなければならない。

このような悩みの末にカメラ前に立つハン・ソッキュがいて、

観客は幸せに彼の演技を見守る。

映画'パパロティ'で彼が歌ったひまわりの黄色のように彼はすでに、

観客に'幸福をあたえる人'になった。