2013.4.10公開
153分
カン・ウソク監督
ファン・ジョンミン、ユ・ジュンサン、ユン・ジェムン、チョン・ウンイン出演
全てのものがそのリング上にあった。
食べさせる妻子も、度々擦れ違う娘も、生計とひっくり返した商社の侮辱も、
忘れた青年の夢も四角のリング上にあった。
酒場でもめ事を起こした子供の未来をお金と権力で生きる財閥も、
何の罪悪感なしで犠牲の羊を作る怪物のような子供たちも、
青年の夢を食物連鎖の序列の中にこねて入れてこそ維持される、
非情な社会も加虐と被虐の観淫症を買って売るショーも、
みなジャングルのようなリング上にあった。
自営業者も、サラリーマンも体のみに出て戦わなければならない、
それでこそ次の勝負の時まで生存が延びる舞台。
そのようにパンチはすさまじい存在証明であり、
拳一つがなくことであったし笑いだった。
‘幸福は成績順ではないでしょう’のリアリティーと‘トゥーカップス’のユーモア、
‘公共の敵’の痛快で、‘苔’のスリル感、そして‘シルミ島’のすさまじさまで、
合わせるカン・ウソク映画世界の‘総合版’というだけのことはあった。
イム・グォンテク監督を除いては現役中最多のフィルモグラフィーを持ったし、
19編の映画で歴代最高の興行記録を保有したカン監督の人間と、
司会をする視線、そしてアクション、ユーモア、ドラマを扱う映画的感性が、
凝縮された。
2013年韓国社会の風景と多様なイシューを四角のリング、
四角のスクリーン中に凝縮させた‘伝説の拳’はぼう大なようだが、
全てのものを通すのは今、ここを生きていく平凡な人々の、
素朴な笑いと涙だった。
この映画は43才同年齢三人の男の話を入れた。
あるケーブルTVで今は中年だが高校時期全国各地域でわれこそはと思う、
‘拳’で通じた彼らを捜し出して再びリング上にたてる‘伝説の拳’という、
激闘リアリティーショープログラムが用意される。
“高校時代14対1で戦って勝った”
という太鼓腹の人の社内も、
“幼い学生の体で町内ごろつきを制圧した”
という中年の男も挑戦状を差し出すプログラム。
視聴率を上げようとするホン・キュミンPD(イ・ヨウォン)は25~26年余り前霊廟、
動作一代を牛耳った‘伝説’、イム・トクキュ(ファン・ジョンミン)を捜し出して、
彼に出演を執拗に要求する。
妻と死別してみすぼらしい麺屋を運営して娘と平凡に生きていった、
イム・トクキュは一言の下に断るが、学校で他の子供を殴って事故を起こした、
女子高生娘によって合意金用意のため出場を決心する。
高校時期ボクシング有望株で88の夢の木と呼ばれたイム・トクキュが、
常勝疾走して全国的な話題になる間、彼とともに学生時代学校一帯を、
ぶるぶる震わしたまた他の‘拳’シン・ザイソク(ユン・ジェムン)と、
イ・サンフン(ユ・ジュンサン)が加勢する。
シンは年を取っても依然として末端組織暴力生活を免れなくなっている、
取るに足りない境遇であり、
イ・サンフンは堂々としている大企業広報部長だが財閥総師の命令で、
しなければならない境遇だ。
イ・サンフンは会長はトクキュ、ザイソクと共に似合って通った、
財閥3世ソン・ジノ(チョン・ウンイン)であった。
40代中年男性の下品な現実と覇気満満だった過去を交差させる映画は、
10代の稚気に充ちたずばりと質からプロ格闘技の迫力感、
40代中年のすさまじい生存闘争まで多様な顔と感情でアクションを描き出した。
時には滑稽で時には悲しくて時にはすさまじくて時に痛快だ。
賞金何千万ウォン受けようとリング上に上がった男は、
“生きるのが窮屈なのか”、
“生きるのが侮れないだろう?”
と互いに尋ねる。
誰かからは、
“そのように生きたのが自慢か”
というあいくちを受けて、
“私はこのように生きてきた”
と寂しく打ち明ける。
子供たちには、
“パパが一番上手なのが何か、金を儲けるのではないのか”
としてはでに話して、格闘技選手にたっぷりたたき合って、
“あきらめなさい”
という話を聞きながらも最後までリングを離れない。
この映画がしたい話はこの人物のセリフと身振りそのどのあたりにあるだろう。
結局この土地を生きていく平凡な男たち、特に30、40代が感じる疲労感と、
劣敗感、挫折感、危機感がこの映画の出発点になった計算なのに、
それをより一層加重させるのは‘反則と便法、序列、暴力の社会’だ。
オリンピックをするといいながらとんでもない地域までむやみに暴いた、
非常識の歴史、財閥総師が野球のバットで役員を殴って、
ルームサロンでホステスを暴行してもかまわない無法の社会、
報道機関と財閥が記事と広告を交換する不正のコネクションなど、
スクリーンに描かれた韓国社会の苦々しい自画像が映画を、
より一層豊かにする。
誰でも‘階級章離して体のみでつくことができるリング’はそれで映画の中の、
主人公に最後自尊心をかけた舞台であった計算だ。
映画は原作になったウェーブトーンと素材と出発、人物構図は同じだが、
具体的な設定と展開、結末は大幅変えた。
ナレーティブはもう少し細かくなったし、アクションはより一層、
緊迫するように演出された。
映画は3人の男たちが正面対立する最後の大田(テジョン)で絶頂をむかえる。
過去の暴力が引き込んだ彼らの人生、
リング上の激闘だけで自身の存在証明をせざるを得ない現在。
ジレンマで彼らはどんな選択をするだろうか。
痛快な最後のカウンターパンチを忘れないながらも暴力それ自体を反省して、
すべての観客に慰安をプレゼントする結末は絶妙だ。
韓国大衆映画の巨匠らしいカン・ウソク監督の‘神の一枚’というに値する。
映画を見たらあたかも自らがリング上に立って死闘を行ったように、
うようよするかも知れない。
‘伝説の拳’はそのようなあなたにこのように尋ねて答える映画だ。
劇中セリフのようにね。
“大丈夫なのか?”
“私はまだ倒れなかった。 ”