チョン・ジヨン監督の[南営洞(ナミョンドン)1985]が、

17回釜山(プサン)国際映画祭で初めて顔見せした。

映画は故キム・グンテ前民主統合常任顧問が全身で編み出した、

胸が痛い暴力の時代を暴く。

実際をほうふつさせる程の顧問場面だけで話題になったことでないという話だ。 反応が尋常でない。

キム・デスン監督

映画を見てチョン・ジヨン監督が非常に偉かったし、一方でうらやましかった。

チョン・ジヨン監督は自身の哲学と明確な目標を具体化して、

本当に実現に移した。

誰もができないことだ。

映画は演出がより一層円熟して、無駄が一つもない感じだ。

特別な技巧なしで淡泊にさせたが、努めない態度がかえって観客を泣かす。

キム・ジョンテ(パク・ウォンサン)が対共分室に縛られたまま、

海辺の歓迎を見て少しの間だけでも平凡な人生を夢見る、

短いファンタジー場面で私やはり感情が移入されてたくさん泣いた。

[南営洞(ナミョンドン)1985]の決定的ある部屋は私からだが満身瘡痍なって、

めちゃめちゃになっているが自身が密告した人々を心配している、

キム・ジョンテを見せる場面だ。

思いのままに痛く感じることもできない、自由でない時代に対する、

チョン・ジヨン監督の憐憫幼い視線が画面そのまま伝えられる感じだ。

イ・ジュンイク監督

過ぎ去った時代とその傷を話す[南営洞(ナミョンドン)1985]は、

あたかも痛い傷であるほど避けずに正面から眺めろと話す映画だ。

政治的話題と関係がなく映画が持っている痛い時代に対する態度が良かった。

この映画を政治的道具で活用するのは正しくないと考える。

それだけ映画的にも十分に価値ある作品だ。

俳優の水準高い演技も映画に重さを加える。

パク・ウォンサンの切なる演技だけでなくミョン・ゲナム、イ・ギョンヨンの、

演技は普通の商業映画では簡単に接し難い良い演技であった。

俳優全員単純にキャラクターに接近することで終わらないで、

映画全体を考慮した演技をするようで感動が大きい。

キャラクターが俳優で見られなくて完全にその当事者と見える程立派だ。

クォン・チルイン監督

過去をどのように見るかを問い、なのでその痛みをどのように克服して、

未来へ向かうかは問いに関する映画であった。

作家が言いたい話と態度は最後に出てくるはずだが結末が特に印象的だった。

とても率直で賢明な選択だったと見る。
チョン・ジヨン監督の映画で感じられる勇気ある態度を見て、
より若い世代の監督として反省もすることになった。
個人的にチョン・ジヨン監督の映画が次第に人物の中に、
入っているという印象も受けた。
前作の時点が全知的客観的だったら[南営洞(ナミョンドン)1985]は、
1人称主観的時点に近い。
単純に見守るのでなく見る人とキャラクターを同一視するようにさせる力が、
ものすごい。


チャン・リュル監督

良かった。
演出と美粧傾向は話と区分して説明することが無意味に感じられるほどだ。

ひとまず見る前には暗い設定と話のために不便だと思ったが、

取越苦労であった。

[南営洞(ナミョンドン)1985]はついに観客を、

わあわあ泣くようにさせる力がある。

劇場で声を出して泣く観客を久しぶりに見ることができた。

観客として劇場で感じる最高の価値が感動と笑いならば大きく泣くことは、

やはり彼と重さが似ているだろう。

1985年当時韓国にいなかった私としては事実直接的に、

経験してみることができない歴史の話だ。

だがよく分からない人も十分に疎通することができるはずだ。

拷問場面が映画のほとんど全部なのに劇場の外を出ながら、

暖かい映画という感じがして気持ちが妙だった。

チョン・チャンイル釜山(プサン)国際映画祭プログラマー

[南営洞(ナミョンドン)1985]は残酷だ。

しかし悲しみの情緒がある特別な情緒の残酷さだ。
 
人間キム・ジョンテとイ・トゥハンを一方的な加害者と被害者として、
責め立てないのに時代の野蛮性が感知されるようにグリーン、
監督の批判的距離をおくことと成熟した演出力が引き立って見える。

釜山(プサン)国際映画祭で二つ目で見詰めにくい場面があることにも、
[南営洞(ナミョンドン)1985]に15才等級を付けることができたのは、
片側に偏らない批判的距離のためだ。
実際の拷問に近い撮影を体験しながら苦労したパク・ウォンサンは、
演技が上手だではできない次元を越える境地の演技を見せる。
イ・ギョンヨンは加害者として本当に大変なキャラクターだったはずなのに、
本当にプロフェッショナルのように演技をやり遂げて驚くべきだった。
パク・ウォンサンとはまた他の次元の境地を見せる。
音楽の構成もまた特別だが、映画自体が非感性的側面が多い反面、
音楽は感性的だと観客の不便な感情を減らしたと見る。

ペク・ジョンヒョン記者

110分間捕縛された気持ちだった。

やっと十人もまだならない人員が、小さくてかなり、暗い対共分室で、
作り出すこの映画の空気はその時代の痛みを喚起させることで残る程、
力が強烈だ。

チョン・ジヨン監督は[折れた矢]で見せてくれたウィットと痛快さを、
最初から排除する。
ひたすら観客を恐怖の現場で追い込むだけだ。
その惨劇の気勢に押さえられて、ひとまず現場に参加する瞬間、
観客は生半可な感想も涙も示すのが容易でない気がする。
特に俳優たちの演技は非常に印象的だ。
顧問技術者イ・トゥハンを演技するイ・ギョンヨンは背筋が寒くなるように、
恐ろしくて冷静だ。
裸体に情熱を傾けるパク・ウォンサンは言うまでもない。
実話という点、大統領選挙期間にリリースするという外部的要因を排除しても、
[南営洞(ナミョンドン)1985]は十分な問題作だ。

ホ・ナムン客員記者

[南営洞(ナミョンドン)1985]は情緒的でも肉体的でも耐えるのが難しい映画だ。
上映時間の90%以上を故キム・グンテ(キム・ジョンテ)前民主統合常任顧問が、
拷問される場面に割愛するためだ。
これは単純にキム・グンテ個人が体験した苦痛をそっくり観客に、
転嫁しようとする意図ではない。
これは一種の歴史清算だ。

[折れた矢]が検察改革の国民的風を投影したように、
[南営洞(ナミョンドン)1985]は歴史清算を通した古い価値の打倒を叫ぶ。

それにしても大統領選挙がいくらも残っていない私たちの社会の今、
最も重要な話題は歴史清算だ。
歴史清算は正面から向かい合って凝視する時にはじめて資格を、
得ることができる。
[南営洞(ナミョンドン)1985]がこの時点に登場したのもすぐにこのような理由だ。
[南営洞(ナミョンドン)1985]を見れば映画的完成度より、
その意図がさらに目に映る。