▲ 2000年以後症候群を追い立てたメロー映画10

◇4位[同感]二人の主人公が手で壁を掃いて行く場面

2000 ¦監督キム・ジョングォン¦出演キム・ハヌル、ユ・ジテ、パク・ヨンウ、ハ・ジウォン

二人の主人公が塀を手で触って歩く姿が重なる場面は、
‘時間を超越した愛’というメローの情緒を最も映画的な技法で表現した瞬間だ。
‘未来の男’を信じなかった女(キム・ハヌル)は結局彼の存在を認める。
彼が無線機の向こう側で言った通り、好きな先輩が自身の縁でないという、
苦々しい運命を受け入れた女は‘未来の男’ユ・ジテに告白する。
“今日その人は私の胸中で消しました。
そして安らかな気持ちで永らく歩きました。”

1979年を買う女と2000年を買う男が無線機を通じて胸の内をやりとりする。
女が塀を手で掃いて歩く姿と男が同じ塀を手で触って歩く姿が重なる場面は、
‘時間を超越した愛’というメローの情緒を最も映画的な技法で表現した瞬間だ。
科学で証明できない素材を映画に、“そうしそうだ”という同感を引き出せば、
話はもう少し弾力的にうごめくはずだ。

こういう脈絡で <同感>のこの場面は韓国メローの不らちな想像力を、
引き出した名場面に値する。
‘運命’を前提に敷いて展開するメロー映画で数奇な運命は、
ストーリーテリングで避けられない装置で使われる。
人間の力で逆らうことはできない運命に巻きこまれて、
人生がさかさまになる設定は強い催涙性ドラマを広げて出すためだ。

だが <同感>は観客の涙を絞り取る代わりに運命を黙々と受け入れる女主人公を、
通じてメローの典型を果敢に脱離した。
永らくメローという運命の前にみずぼらしくなった‘涙の女王’らの為の、
舞台ではなかったか?
だが、ミレニアム時代を迎えた韓国映画界で、
<同感>のメローの惰性を踏襲しないで、新しい枠組みをした。

時間を超越して男女が会うファンタジー設定はすでに <銀杏のベッド>(1996)で、
見せてくれたことがあるが、
運命の前に無気力な悲劇で涙を抜き取る印刷をしていた。
だが <同感>は‘クールに’運命を受け入れて思い出を抱いたまま淡々と生きていく、
主人公を前に出して新世代と共感を成し遂げた。
<同感> 以後‘時間超越’のファンタジーはメローのよく使われる素材になったし、
これ以上涙を強要しなくて‘メロー’が可能だという事実を見せた。

<十月子>(2000)は神秘なポストを媒介に手紙をやりとりする二人の男女が、
時間を行き来して切ない感情を分けたし、
<クラシック>(2003)もやはり時間を跳び越えてロマンチックな初恋を描いた。
二つの映画全部精巧に組まれたストーリーと感性的な映像で洗練された、
メローの風景を広げて出した。
<同感>は最も通俗的なジャンルに分類されるメローで‘時間超越’という、
SF的想像力を土台にクールな新世代の情緒を表わして、
韓国メローの新しい地平を開いたという意味がある。

映画は時代を反映する。
愛の感情を表現する方法も世代により変わるはずだ。
<同感>で新しい世代の感性を追ってメロージャンルの進化を追求したという点で、
‘アイコン’としての意味を探すことができる。

◇5位[恋愛の目的] “ぴったり5秒だけ入れていますね!”

2005 ¦監督ハン・ジェリム¦出演パク・ヘイル、カン・ヘジョン

このように露骨で直観的で率直な言語で相手を渇望するメロー映画はなかった。
<恋愛の目的>でセックスがおもしろい遊びという事実を熱く暴いた。

<恋愛の目的>はちょっと見にくいメロー映画は以前にも、以後にもなかった。
明確に愛に陥る二人の男女の話なのに、‘メロー映画’と呼ぶには、
とても厚かましいところがあった。
それもそのはず映画の初めてのセリフが、
“ぬれましたか? ぬれたでしょう?”であったから。
高等学校英語教師のユリム(パク・ヘイル)は好感が持てる、
教育実習生ホン(カン・ヘジョン)に終わりもなしで露骨なわい談を、
ぺちゃぺちゃしゃべる。

“貝を好むようですか?
私は他の貝好むけれど。”、
“君が締めておいしくて。”、“締めてぬれた。”、“私は立ちました”等、
露骨な性的表現が終わりもなしで繰り広げられること。
その中で最高にあきれるセリフは“ぴったり5秒だけ入れていますね!”
作家はなぜこういうセリフを考え出したのだろうか?
その想像力に感心するほどであった。
挿入に対する渇望をこれよりさらによくセリフはなかったから。

“一回だけしよう。”、“兄さん信じるだろう?”、“愛するから一緒に寝たいのよ”
等男たちの無駄になった約束を多く入ってきたが、
“ぴったり5秒だけ入れていますね”
と公約を掲げる男は初めてだった。
“セックスしたくて”
というセリフの代わりに“愛している”あるいは、
“今日家に行くな”、百回譲歩して、
“一度しよう”で表現するのが普通なのに、
<恋愛の目的>のユリムは“食べたくて”と話す。

これだけなのか。
“良い?”、“君終わらせる”代わりに“おいしくて”と話す。
この映画を見た男たちはユリムのセリフに‘ゴール殴る’でくすくす笑ったし、
女たちは‘ちょっとひどかったんじゃないの?’と顔をしかめた。
このように露骨で直観的で率直な言語で相手を渇望するメロー映画を、
以前に会ってみられなかったせいだ。

<恋愛の目的>のセリフはぞろぞろ‘隠密な’流行語になった。
“君、おいしくて”というセリフや、
“ぴったり5秒だけ入れているから”というセリフはインターネットを通じて、
一波万波に広がったし恋人たちの間にやりとりする冗談になった。
不らちな冗談。
<恋愛の目的>でセックスがこれ以上礼儀正しくて美しく包装されなければ、
ならないのではなく、おもしろい遊びという事実を熱く暴いた。
だからだろうか?
<恋愛の目的> 以後で性的表現に露骨な映画らも多数リリースした。

悪口とわい談で話題になった <恋愛、こらえられない軽いという事>(2006)も、
‘セックス’の他の表現で‘食べる’、‘打ち込む’等の俗語まであばき出す、
<妻が結婚した>(2008)も女性観客らに愛された。
もちろん‘餠をつく’というセリフが出てきた時、
女たちは“マア!”と感嘆の声をあげたとしても話だ。

◇6位[オアシス]木の枝切る場面

2002 ¦監督イチャンドン¦出演ソル・キョング、ムン・ソリ

<オアシス> だけに辺境人の愛をすさまじく描いたメロドラマはそんなに多くない。王女に最後の贈り物をくれる場面は何度見ても美しい。

<オアシス>はイ・チャンドンの映画の中で観客を最も不便にさせる映画だ。
ソル・キョングは(正常な人とは違った)男と、
コンジュ(ムン・ソリ)という(名前とは異なる)障害者の愛。
世の中のみんなに疎外された彼らの愛が始まる瞬間、
映画を見る私たち皆は罪人になる。
二人の愛は(コンジュの部屋に関わっているじゅうたんのように)世の中という、
荒涼な砂漠に囲まれたオアシスだ。

コンジュの部屋を抜け出す瞬間、彼らは認められることができなくて拒否される。
さらにこの部屋で分ける彼らの愛を、彼と彼女の家族まで認めない。
結局障害者強姦罪で留置場に閉じ込められていた彼は脱出する。
そしてもう一人で人をコンジュのために、彼女が恐れる、じゅうたんのオアシスを、
幽霊のように闇に揺るがす木の枝を切る。

木の上で彼は熱心に切って、木の下から警察は降りてこいと叱りつける時、
部屋の中でコンジュは‘大きくラジオをつけて’彼にリアクションを取る。
階級や職業、戦争、死のような障壁が愛を分けたことは多いが、
このように辺境人の愛をすさまじく描いたメロドラマはそんなに多くない。
彼がコンジュに最後の贈り物をする場面は何度(か)見ても高貴で美しい。

メロドラマは基本的にファンタジーという武器を装着するが、
新自由主義以後暮らしがパサパサしているようになった今、
善男善女の運命的な愛はますます非現実になってかえって拒否されやすい。
映画が現実を復元しなければならない理由!

‘88万ウォン世代’のくだらない愛を描いた <塵集めてロマンス>の、
青年失業者ジウン(ソン・チュンギ)は国宝級ケチな赤い糸(ハン・イェスル)が、
詐欺でお金を失ってお母さんの遺骨をばらまいた木をあきらめる時、
持っているものがない青年失業者は最後のお金をはたいてその木をプレゼントする。
彼が木を切ってコンジュに平安をプレゼントする時、
ジウンは木を移して赤い糸に慰安をプレゼントしたのだ。
事実、木のシーンだけでなく疎外された彼らが愛する相手に自身が、
‘最後に持ったこと’をプレゼントする場面は最近映画にたくさん登場する。

<ただあなただけ>では貧しいボクサーは視覚障害者の恋人に、
目をプレゼントして離れて、
<私のチンピラのような恋人>(2010)でチンピラは就職準備生に就職の機会を、
プレゼントした後離れる。

現実は大変疲れてもこういうすさまじい贈り物があるのに、
耐えるだけのことはあるではないか!
しかしこれが‘愛する相手にこれ以上与える必要がない’時代と現実を、
反映することならばひたすら喜ぶだけではない。