▲ 2000年以後症候群を追い立てたメロー映画10


◇7位[スキャンダル-朝鮮男女の相悦之詞] “通じたか?”

2003 ¦イ・ジェヨン監督¦出演ペ・ヨンジュン、イ・ミスク、チョン・ドヨン


<スキャンダル>の主人公が持った通じたい、
すなわち‘関係’を結びたい欲望から始まる。
人物は互いに‘まったく’と言うために忙しい。

メローの最も重要なテーマは‘欲望’だ。
このジャンルの人物は互いに愛してセックスして時には欲情を押さえ込んで、
ある時は死に駆け上がる痴情劇を行ったりもする。
史劇メロー(‘エロ’ではない) <スキャンダル-朝鮮男女相悦之詞>
(以下 <スキャンダル>)の欲望は簡単で、この映画のヘッド コピーは、
それをより一層簡単に整理する。
“通じたか?”この映画は主人公が持った通じたい、
すなわち‘関係’を結びたい欲望から始まる。

それが浮気者の遊戯でも、欲望幼い嫉妬でも、クールな賭けでも、
こらえることはできない復讐心でも、若い血気でも、 <スキャンダル>の人物は、
互いに‘まったく’するために忙しい。
<スキャンダル>は1980年代エロチシズムで沸き立って1990年代には、
その脈がほとんど切れた史劇ジャンルの伝統を欲望の観点で復活させるが、
ここには方法論の転換がある。
過去の‘正統エロ史劇’の中の人物が相手方に直接的な方式で欲情を訴えるなら、
<スキャンダル>ではるかに‘強い’欲望を表現しながらも雰囲気自体は、
礼儀正しくて優雅だ。

いとこ同士のチョ氏夫人(イ・ミスク)とペ・ヨンジュンは近親相姦のニュアンスを、
イ・ソヨンと小屋の母(イメージ)と全部関係を結んだし、
チョ氏夫人はほとんど息子程度のクォン・インホ(チョ・ヒョンジェ)を浄人で置いた。
これが(この映画の原作小説の題名でもある) ‘危険な関係’と、
受け入れられないのは、この映画が持った表裏不同の話法のためだ。
<スキャンダル>のセリフは心を隠して遠回しに言ったり、
意図しなかった偽りや高級な冗談だ。

ところが欲望は隠すほどより一層燃え上がって、
<スキャンダル>はそれを言語でない事物で表現する。
この映画はおしゃれあるように包装されたり派手にさせた欲望の道具らで、
ぎっしり埋まる。
チョ氏夫人の化粧道具や造形的な美しさまで持つ食べ物、派手な屏風と磁器長、
色々なアクセサリー、素敵な衣装など、 <スキャンダル>は食べたくて塗りたくて、
持ちたくて着たい対象らを絶えず見せる。
これは‘欲望の美粧傾向’であり、組員が描いたまくら絵のように、
強いイメージで人を変えた。

製作費50億ウォン中20億ウォンを美術費用で使ったという <スキャンダル>が、
このようにおさめた最も大きい成果は、このようにビジュアルを通じて、
メローの激情的感情を伝達したという点だ。
以後韓国史劇でプロダクション デザインの比重はますます大きくなったし、
<スキャンダル>の方法論は <淫乱書生>(2006)、<ファン・ジニ>(2007)、
<美人図>(2008)、<サンファジョム>(2008)、<房子伝>(2010)等で‘通じるように’なる。

◇8位[あなたを愛しています]これだけこれの誕生日パーティー場面

2011 ¦チュ・チャンミン監督¦出演イ・スンジェ、ユン・ソジョン、ソン・ジェホ、キム・スミ

“誕生日おめでとうございます。誕生日おめでとうございます。”
の場面は皆が忘れていた大切な感性を復碁させる。
日常的でお決まりのこの言葉がどれくらい真心幼い祝いなのかを。

むさくるしくて冷たかった小部屋に暖かいぬくみが漂う。
おばあさん(ユン・ソジョン)は生涯初めて自身のための誕生日の祝膳を、
受けてみるところだ。
他の人々は誕生日ごとに変なことなしで眺めるケーキだが、
おばあさんには意味が格別だ。
ケーキ一つどしんと置かれた素朴で身軽な食膳を前に置いて、
イ・スンジェおじいさんがシャンの声で歌を歌い始める。

“誕生日おめでとうございます。
誕生日おめでとうございます。”
歌うのも、聞く人も目がしらが即座に赤くなる。
この場面は皆が忘れていた大切な感性の一つを復碁させる。
‘誕生日おめでとう’は日常的でお決まりの言葉が、
どれくらい真心幼い祝いなのかを。
この誕生日の祝膳を持ち上げるこのおばあさんが世の中に生まれて、
初めて経験した事がまた、一つある。
彼女には聞いて使える名前ができた。

世の中で即座に消されてしまうよう生きていった彼女に名前をつけて、
しわになった両手に住民登録証を握らせたのはおじいさんだ。
“顔が美しいからこれだけこれですれば良い”
としておじいさんが彼女の名前を呼んだ瞬間、はじめて‘存在’になった。
この瞬間部屋の中にはおじいさんとおばあさんでない、
お互いを愛情する男と女がいる。

<あなたを愛しています>は暗黙的にダブー視された

法則を果敢に破ってしまった映画だ。
‘しわだらけ老人たちのラブストーリーを誰か見たいか’という憂慮を払拭させたのだ。 しかしその方法は決して攻撃的でなくて、素朴でやわらかい。
この映画は飛んで行くよう軽くなって空中にぶんぶん浮いているような今の時代、
この‘愛’に重たい意味をぶら下げて土地におりて座らせる。

愛はお互いの存在を確認させて支えてくれることに違わないことを、
性に合わないあらゆるものなどを問い質すのでなく相手方を全て尊重して、
認めるということを話す。
これはトレンディーメロー映画が‘やぼったい’で片付けて、
遠くに片づけてしまった感性だ。
足に蹴られるほどありふれている告白になった‘愛する’という話に、
胸が痛くて見たことがいつか。

<あなたを愛しています>は力説する“あなたを愛しています”という一言にも、
キャラクターの真心を取り出してあげた。
ここにはどんな包装やトリックもない。
愛をいうこれらが過ぎた歳月の深さと人が人を心より愛情する心だけ、
ものさびしく存在するだけだ。
100万人を越える観客はこの映画を通じて愛の深さを今一度確認した。
老年の愛が若い者らの愛より慎ましくて美しいこともあるという、
うれしい可能性を思い出しながらだ。

◇9位[後悔なんてしない]セックス場面

2006 ¦監督イ・ソンヒイル¦出演キム・ナムギル、イ・ヨンフン

二人の男の激烈な身振りと切ない感情が一つになる瞬間、
はじめて韓国映画はゲイのセックスを身振りと同時に感情に受け入れ始めた。

ジェミン(キム・ナムギル)はひと目でスミン(イ・ヨンフン)を調べてみた。
スミンを眺めるジェミンの目つきはいつもぬれている。
スミンは引き続きその目つきを取り払う。
お金多くてたくさん習ったジェミンが億万金を包んで持ってきても‘後’を、
許諾しないものは、孤児で貧しく育ったスミンに最後に残った自尊心だ。
ホストバーで仕事をするスミンがジェミンに尋ねる。
“私は夜ごと数多くの‘寝るだろう’を洗うのにはい‘寝るだろう’が特別な理由が何?”ジェミンが悲しい目に涙をいっぱい入れて話す。
“持ち出した一つだから。 君のことも一つだから。”

その話を聞いて外に出て行ったスミンを探すためにホストバーを検索するジェミン。
ついにスミンは、騒動を起こしてたっぷり殴られるジェミンを見るに耐えかねて、
背負って行って自身の屋根裏部屋ベッドに横たえる。
ジェミンのそばに並んで横になったスミンがジェミンの股ぐらを静かに握りしめる。
そして続く二人の男のセックス。
映画は何一つ分けることなしでゲイのセックスを真っすぐ見つめる。

一糸まとわない男2人がからだを重ねて一つになって動く。
息を切らせる息、激烈な身振りの上で切ないということがぷんと広まり始める。
激烈な身振りと切ない感情が一つになる瞬間。
<後悔なんてしない>を通じてはじめて韓国映画はゲイのセックスを、
身振りと同時に感情に受け入れ始めた。

<後悔なんてしない>は1980年代‘ホステス メロー’の通俗的話構造を、
そのまま引き込んでクィオ メローの悲劇性を爆発させた。
この映画が2006年封切り当時独立映画最高観客数人4万人を突破する、
熱風を呼び起こしたのは率直な身振りで観客の感情を触ったためだ。
それは韓国映画界にクィオ メロー大衆化の可能性を証明するとみられた、
一大事件だった。

<後悔なんてしない>がなかったとすればチョ・インソン、チュ・ジンモのような、
スター俳優がクィオ コードたっぷり入れることは <霜花店>(2008)に、
出演するつもりもできなかったことであり、2011年12月劇場街に男性クィオ メロー、
<アリシ REC>の女性クィオ メロー<恥ずかしくて>が、
並んでかかる事もできなかっただろう。
<後悔なんてしない>は以後韓国クィオ映画の触媒剤であり障壁で、
今までその場を強硬に守っている。

<後悔なんてしない>が封切りして5年が流れたが、
この映画ぐらいクィオ主人公と、
観客の心理的距離を狭めた映画はまだ出てこなかった。
クィオ メローを‘クィオ’映画でない、‘メロー’映画で見るようにする映画、
<後悔なんてしない>を凌駕するクィオ メローに会おうとするなら、
どれくらいさらに待たなければならないのか?

◇10位[晩秋]最後の場面

2011 ¦監督キム・テヨン¦出演ヒョン・ビン、タンウェイ

映画の最後の場面。
刑務所で出監した彼女はフンと約束したカフェで彼を待つ。
重要なのは彼女を空しく待つことが楽しく見えるところもある。

メロー映画は大部分喜劇でなければ悲劇だ。
見る人の感情を休む暇もなく引き上げることがこのジャンルの責務である為だ。
男と女が運命のように会ってどんな難関を経て愛を成し遂げたりあるいは挫折する。 <晩秋>の原作のイ・マニ監督の <晩秋>(1966)もこの法則で大きく外れない。
二人の男女が偶然に列車の中で会う。
女は休暇を出た模範囚、男はニセ札犯で、二人は妙な同質感を感じる。

一日ぶりに彼らは激情的な愛に陥るが結局この愛は成り立つことができない。
短いので強烈でいらいらする愛の物語だ。
だが、キム・テヨン監督の <晩秋>はとても風変わりなきめを持ったメロー映画だ。
事件は一層簡潔なことは反面人物の内面ははるかに複雑で繊細だった。
この映画は男女が会って感情が芽生えるぴったりその地点まで描写する。

事件を転がしていく代わりに徹底的に女主人公の内面の風景を入れる為に静まる。
刑務所で服役中である女(タンウェイ)は枯れた落葉のように無表情な女だ。
夫を殺したし、愛を失った。
7年ぶりに世の中に出てきた彼女は完全に一人だ。
そのような彼女の前に空で大きく落ちたような男フン(ヒョン・ビン)が登場する。
彼と三日を共に送って固く堅かった彼女の顔も少しずつ開かれ始める。
会話の門を開いて笑ったり、驚いたりもする。
ところでこういう感情の変化はとてもゆっくり、微細に感知される。

メロー映画としては音楽もとても少し使った。
この映画のOSTは五曲に過ぎない。
なので、音楽を使って感情を追い抜くことも膨らませることもない。
どんな地点でフンに心を開いたのかさえ曖昧だ。
クライマックスだと言える二人の主人公のキスシーンは映画のほとんど終わりに、
位置するが、キスの余韻がまた行く前の映画は直ちに2年という時間を、
ふわりと跳び越えてしまう。

そして映画の最後の場面。
刑務所で出監した女はフンと約束したカフェで彼を待つ。
だが、私たちはフンが来るのかこないのかは全く分からない。
女は“アンニョン、久しぶりです”と練習して照れくさそうにフフッと笑っている。
カフェの門が開いたり閉じたりする声に敏感に反応しながら。

だが、ここでフンが来るのかやめるのかは重要でない。
重要なのは女のこの空しい待つことが楽しく見えるというところにある。
彼女の心臓がまた駆け出したことだ。
開かれた結末だがどんな意味で最も完ぺきなハッピーエンドかも知れない。
前に数多くの映画がメロー歴史上最も洗練されたこのエンディングシーンを、
跳び越えようとするだろう。