「はじめは…同情だったんだ。」
ドナルドは悪戯にワイングラスを揺らしながら話し出した。
「この頃じゃ、日本から来るダンサーなんて山程いて珍しくもないのに、何だってこの子は、他の日本人と違ってやたら悪口叩かれて、嫌がらせを受けるんだろう?ってね。」
映画を見終わった後、私達はイタリアン・レストランに入った。
「しかも…まだニューヨークに来たてで、ろくに言葉も解らない子だって言うのに。」
私は黙って聞いていた。
「キミが英語を理解出来ないのをいい事に、そういう連中は言いたい放題だった。中にはキミに笑顔で近づいて、面と向かって酷い事言ってた奴も居たんだ…。」
ドナルドがディナーに選んだレストランは、カジュアルだが品が良く、とても寛げる雰囲気の店であった。
「最初は傍観してた。でも、肌の色の事を言ってた奴が居て…つい…黙っていられなくなった…。」
ドナルドは黒人…
恐らくアフリカ系の血が流れている…と聞いていた。
「肌の色…」
「ああ。目障りな黄色い奴が、ダニエルのクラスで動いてる…ってね…。」
私が、自分に対する悪口を理解出来る様になるまで、約2ヶ月は必要だった。
今、ドナルドが語っているのは、私が端からの悪口を全く理解出来ていない頃…本当にニューヨークに到着したての頃の事である。
『そんな…来たばっかりの頃から悪口言われてたんだ…。』
私は、自分がそんなに以前から色々と言われていた事に驚きはなかった。
しかし、ドナルドが随分と早い時期から、そうした事を認知していたと言う事に、少なからず驚いた。
何故なら、ドナルドと口をきくようになったのは、もっとずっと後の事だったから、彼がそれ以前から私を見ていた…などとは思ってもみなかったからである。
「黙っていられなくなって、そいつに言ってやったんだ…。」
ドナルドはワインを一口飲んだ。
「『遠くから一人、言葉も解らない異国にやって来て頑張ってる奴をバカにするのは、そんなに面白いか!?』ってね…。」
私は、じっとドナルドを見つめた。
「そいつは、俺にも悪態ついたよ…。」
平日の夜、店の客はまばらだった。
「『黒いのが助け船か?だけどな、あの黄色いのには、俺の言ってる事が理解出来てないんだぜ?』そう言われて…キレた(笑)。」
ドナルドは笑ったが、私は笑えなかった。
「…キレて…どうしたの?」
喉が乾いて、私の声が不自然に引っ掛かる。
ドナルドは窓の方に顔を向けた。
「殴った。」
私達は、通りに面した窓際の席についていた。
残念ながら、何を食べたのかも、味の具合も覚えていないが、食事が終わった時、おもむろにドナルドが語り出した事は、昨日の事の様にクリアに記憶に残っている。
窓の外を眺めながら、ドナルドが話を続けた。
「カズミは…いつの間にか現れて…」
独り言の様な声のトーン…。
「あっという間に英語を覚え、あっという間にダンスも上手くなって、あっという間に周りと仲良くなって、まるで、ずっと前から一緒に此処で仲良くしてたみたいな錯覚をみんなに起こさせて…」
ドナルドが窓の外から私に視線を戻す。
「あっという間に、いなくなってしまうんだな…。」
息が詰まる様な気分…
何故か鼓動が早打ち、耳に響き、周囲に聞こえてしまうのではないかと思える程に大きくなった。
何か言おうと…
口を動かそうと思うが、口は動かず、私は、声も出せなかった。
「いつからだろう…寝ても覚めてもカズミの事を思う様になったのは…?」
私はそれまで、あんな風に人から見つめられた事は無かった。
「気がついたら…キミはみんなから好かれてた。誰もキミの悪口なんて言わなくなってた。」
ドナルドの視線は、私を捕らえて離さない。
熱いのに淋しい眼…。
「いつも必死で…誰よりも真面目にスタジオの掃除して…喜怒哀楽が激しくて…いっつも、ダニエルの事しか見えてなくて…何かある度に、泣きながらクラスから飛び出して…」
もう…いいよ…止めてドナルド…
そう言いたかった。
「そんなキミが大好きになってた。」
こんな時…
他の人は、どんな言葉を返すのか?
私には日本語ですら、返す言葉が思い浮かばない。
ただひたすら…
ドナルドの言葉、一字一句を正面から受け止めるしか術がない。
「ある日、キミがダニエルのクラスから泣きながら飛び出して来たのを受付から見た時…」
『いつだ?』
「俺…気がついたら…受付の仕事すっぽかして追っかけてた…」
『え…?』
ダニエルのクラスを飛び出して、スタジオの外へ出て行くには、受付の前を通過しなければならない。
ドナルドはその時、受付で仕事をしていたのだろう。私は、物凄い勢いでクラスから飛び出し、彼の目の前を通り過ぎて行った…と言う事である。
「誰かに酷い事を言われたのか?それとも、ダニエルに何か言われたのか?とにかく心配で…。気がついたら、キミの後をついて走ってたんだ。」
思考が…
上手く働かない。
「セントラルパークの岩の上で両膝抱えて…子供みたいに泣きじゃくるキミを見た…。」
既に絶句していた私は、瞳を倍に開く以外に、何が出来たろうか?
「胸が締め付けられる様で、声を掛けられなかったよ…」
それは正に、今の私がそうである…。
「だけど、それからキミは、ドンドン強くなった。」
ドナルドが微笑む。
「そして…キラキラしてる!」
少し間を取って、ドナルドは続ける。
「この間、キミに絡んで来た奴の事、覚えてるかい?あの時のキミの切り返しは見事だったよ!ホントに強くなったんだなぁ…って思って、誇らしくさえ思えたよ!」
「そ…そんな風に…思って…見てくれてたなんて…あ…あの…俺…何て言ったら…。」
私はようやく言葉を発するが、その声は蚊の鳴くほどのものであり、たどたどしく、フッと吹けば消し飛んでしまう様なものだった。
「俺…」
ドナルドの眼が一瞬、光って見えた…。
「カズミと出会えて良かったよ。」
私は…この一言に…
返す言葉を探す事を止めてしまう…。
見つからないのだ、何も。
そして、このドナルドの大きな優しさは、当時の私の度量では、とても受け止め切れるものではなかった。
あまりに優しく、あまりに温かく、ただ、包み込まれる以外に、何も出来なかったのである…。
私はドナルドの人差し指が、私に向かって伸びて来るのを見た。
ドナルドはその人差し指を軽く曲げると、私の両頬を代わる代わる優しく撫でた。
「なんだってキミが泣くんだ…ん?泣きたいのは俺だ…。」
こうして、私とドナルドの最初で最後の、二人きりのディナーは終わった。
別れ際、ドナルドは『最後の我が儘を許せ』と言い、私をきつく抱き締めた。
そして『これは友達としてのハグじゃないぞ!』と言った…。
店の外の通り…。
行き交う人達は、私達を気にしない。
極々ありふれた景色の一つ。
この街では日常のそこかしこで見られる、当たり前の光景…。
きっと人々の目に、私達は『恋人』と写ったろう。
ドナルドの『最後の我が儘』は…
強く、温かく、そして…
永遠と錯覚する程に長かった…。