こんにちは。

 横浜市会議員の山田かずまさです。

  

 本日、3月11日は東日本大震災から10年。

 震災の翌年に生まれた長女が小学校3年生になりますから、子ども達の多くにとって、あの震災は「生まれる前の話」や「記憶にない話」になります。

 改めて、亡くなられた多くの命のご冥福をお祈りいたします。

 

 今回は、10年前に私自身が被災地を訪れ撮影した写真をいくつか掲載させていただきます。10年間、これらの写真は、家族や友人に見せた以外は公開したことはありませんでした。写真に写る光景は、多くの皆さんが命を失った場所であり、無数の豊かな人生が「あった」場所です。みだりに公開するものではないと考えてきましたし、その時の強烈な記憶が、匂いが、向き合うことを避けさせていたということもあります。

 ただ、最近『きみは「3.11」をしっていますか?』(小学館)という本を読んだ娘に、「パパは震災で何かを失ったの?」と訊かれました。私自信、誰か身近な人を亡くしたり、直接的な被害を受けたということはありません。それでも「あの日」を知らない子どもたちに、自分なりの経験を伝えて行くことが、あの場所で亡くなった皆さんの記憶をつないでいくことになるかもしれない。そんな思いで、写真のデータを探し出しこの文章を書いています。

 

 10年前の2011年も、統一地方選挙の年であり、私は、父である山田一海市会議員の選挙を手伝っていました。10年前の今日、3月11日に起きた、東日本大震災の影響で計画停電が行われる中、選挙カーの自粛など、全く違う雰囲気で選挙が行われたことを覚えています。

 当時、私は、弁護士の仲間に呼びかけて、「法律家が被災者支援において何ができるのか」をテーマに勉強会を開いたり、支援金を送る活動を行っていました。

 まだ、「災害時の法律支援」という考え方もない時代。法律家にできることは限界があり、いてもたってもいられず、5月の連休前半数日間にすぎませんでしたが、宮城県気仙沼に向かい震災ボランティアとして活動しました。

 夜行バスで、早朝、気仙沼駅に到着した時、駅周辺は被害が少なく、不思議な感じがしました。

 港に近い、市の中心部に向けて5分程歩いていくと、言葉を失う光景を目の当たりにしました。基礎のみ残して流されていた建物、打ち上げられた大型船、救助隊が生存者を確認済みの印『Cr』とスプレーでマーキングした無数の車の残骸。視界いっぱいに「死」や「不在」が満ちた光景に、どんな感情を持って良いのか分からないまま立ち尽くしていたのを覚えています。

 

目的地としていたボランティアセンターまでは、路線バスで40分程かかる場所にありました。

バスを待つバス停では、若い男女が話をしていました。

二人は震災後、初めて会ったようで、再会を喜びあっていました。その様子は、仲の良い友達に久々に会った時、そのままでしたが、違ったのはその会話の内容。

『住んでいるのは自宅なのか、避難所なのか』

『○○先輩は無事だったけど、××先輩は亡くなった。△△ちゃんは、まだ見つかっていない』

『就職が決まっていた会社が流されちゃって、』

非日常が、死や不在が、日常となりつつあることに、ハンマーで殴られたような衝撃を受けたことを覚えています。

 

路線バスは、入り組んだ宮城県の海岸を進んでいき、何とかボランティアセンターまでたどり着きました。

バスで走っているく道中は、津波の大きな被害を受けた入り江と、全く無傷な部分の繰り返し。津波の恐ろしさが余計に感じられました。

ボランティアセンターでは登録後、集落の中の道を、スコップで復旧する仕事を割り振られ、一日中作業にあたりました。

 

基礎だけを残して、そこにあった家は全て流されてしまった集落。海へと続く道を塞ぐ土を、仲間達と一緒に何度も何度も運びました。

途中、近所のおばあちゃんがやってきて、缶コーヒーを差し入れしてくれました。

おばあちゃんは、残っている基礎を一つ一つ指さして、「ここは、○○さんが、息子さんと住んでいた」「ここは××さん夫婦がいたところ」と教えてくれました。

一日の最後は、自衛隊が、入浴支援で設営した移動式の浴場を使わせてもらっていました。

被災者とボランティアの方に開放されていたのですが、自衛隊員自身は利用せず、身体を拭くだけということでした。

なお、私たちボランティアは水・食料持ち込みで自給自足体制で現地に入っていたので、自衛隊の炊き出しで食事をすることはありませんでしたが、炊き出しの食事も自衛隊員が口にすることはありません。

隊員は、通常は温める携行食料(いわゆるミリメシというやつです)を冷えたまま、被災者の方に見えないように、食べていたということです。

予備自衛官の訓練で、この「冷えた携行食糧」を食べたことがありますが、以前より美味しくなったとはいえ、正直、、、というものです。

自衛隊の皆さんには、本当に頭が下がりました。

以上が、僕が10年前、被災地で見たものです。

 

 東日本大震災で失われた命は1万5899人、行方不明の方は2529人。改めて、その数字の大きさに愕然とします。ただ、これは一塊の数字ではなく、当時幼稚園生や小学生だった子ども達も、仕事をリタイアしていた皆様も、長短に関わりなく、それぞれが懸命に生ききった人生の温もりや喜びが一つ一つ積み重なったものであることを決して忘れてはいけません。

 大自然の力を前に、人間の力は小さなものですし、ましてや政治家にできることなんて本当に限られたものかもしれません。ただ、人間ができる「政治」や「行政」が関わる分野で、数字が一人でも二人でも減る方法があるのであれば全身全霊で取り組まなければならない。

 震災直後の被災地を訪れ、胸に刻み込まれたこの想いが、現在、この街で、市会議員として活動すること、あるいは、予備自衛官として災害にも備えることの原点になっています。

 防災の世界では、しばしば「人は2度死ぬ」という言葉が使われます。肉体的な死を1番目とするならば、その人を知る人がいなくなることが2番目の死です。10年が経過する中で、被災地の姿も大きく変貌し、記憶も風化しつつあります。その中で、3・11を経験した私たちにできることは、あの日命を落とした皆さんが、冷たく寂しい場所で「2番目の死」を迎えることがないよう、子ども達に伝え続けること、語り続けることだと思っています。

 写真は、震災から6年後、ボランティアに入っていた集落を再び訪れた時の写真です。

 当時は全く目に入っていませんでしたが、本当に美しい場所でした。この美しく穏やかな海が多くの人の命を奪ったなんて、信じる方が難しい。そんな場所でした。

 

 最後にあと一つだけ。

 震災当時こそ、様々な形で被災地支援に関わっていた私ですが、時が経つに連れて、日常に追われるようになっていってしまいました。

 その間、志ある弁護士達は、被災者の二重ローンの問題などに正面から取り組み、ガイドラインの策定や、国の災害法制をリードするなどの活動を続けました。その後も様々な災害において、知識と経験とノウハウを蓄え、多くの被災者の方に法律家の立場から支援を続けています。

 正直なところ、そこから逃げてしまった自分に恥ずかしさを感じてますし、コンプレックスさえ感じる部分があります。

 

 だからこそ、今。

 

 生活に一番近い地方議員として、今度こそ、逃げずに、必死に、取り組んでいきたいと思っています。「微力であるが、無力ではない」と信じて、今後も全力で働いてまいります。