もう 梅雨明け? 

 

 

「あの高森の廣(広)い往還を 思ひ(い)出すたびに、
なぜ山奥に ふいにあんな美しい 町並みがあったのか、
不思議に思ふ(う)」

高森出身の(お父さんの実家がここ高森で、高森で育った)
宇野千代さんの小説
「ある女の一生」
からの一節です。
この描写がぴったりの高森宿の宿場町です。


高森の本陣跡の、恵比寿社
商売繁盛とお酒の神様を祀ったお社

高森宿

高森町の町並です。町の東が市頭、西側が市尻で、
上市、中市、下市に分けられていたそうです。

高森宿本陣跡。
本陣は、相川家が勤めていたといい、
別名相川本陣ともいいます。
脇本陣は受光寺と山本家が勤めました。

街道筋には 藩主の参勤交代、暮府の役人、朝廷の公家などが泊った宿舎、
本陣、脇本陣が置かれ 古くから 人々が行き交い 栄えました。

高森本陣は、萩本藩の東端の本陣として重要視され、
幕府軍と長州藩との戦いである、四境の役(第二次長州戦争)での
休戦協定成立の舞台になりました。

昭和初期までは 道の中央に溝と柳並木が続き、
風流な宿場町だったそうです。

現在、
本陣は、
古い門と塀が残り、
「旧山陽道 高森本陣跡」と書かれた、
本陣の標柱・標識もあります。

なまこ壁の塀
高森宿の町並み。なまこ壁の塀が見事です。
この建物は酒造場・造り酒屋だったそうで、
造り酒屋を営んでいた中村酒造跡だったそうですが、
平成21年に取り壊されました。

ここに小さな社がありますが、
中市の恵比寿社の祠と 思われます。
参拝します。

親子ガエルがいます。

これと道を挟んだところに妙見社への道しるべがあります。

北方向が山代へ至る山代道、
南方向が柳井へ通じる柳井道で、
山代道角地には 小さな妙見道標・「妙見道」の道標があります。
道標は
「是妙見 
 安政二卯(1855) 神代村」とあります。

    安政2年、1855年は、乙きのと卯う です。

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今年最もハードだった日は?

 

山に 3つぐらい 登った日は

ハードでした。

 

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高森宿本陣跡

「あの高森の廣(広)い往還を 思ひ(い)出すたびに、
なぜ山奥に ふいにあんな美しい 町並みがあったのか、
不思議に思ふ(う)」

高森出身の(お父さんの実家がここ高森で、高森で育った)
宇野千代さんの小説
「ある女の一生」
からの一節です。
この描写がぴったりの高森宿の宿場町です。


高森宿

高森町の町並です。町の東が市頭、西側が市尻で、
上市、中市、下市に分けられていたそうです。





高森宿本陣跡。
本陣は、相川家が勤めていたといい、
別名相川本陣ともいいます。
脇本陣は受光寺と山本家が勤めました。

街道筋には 藩主の参勤交代、暮府の役人、朝廷の公家などが泊った宿舎、
本陣、脇本陣が置かれ 古くから 人々が行き交い 栄えました。

高森本陣は、萩本藩の東端の本陣として重要視され、
幕府軍と長州藩との戦いである、四境の役(第二次長州戦争)での
休戦協定成立の舞台になりました。

昭和初期までは 道の中央に溝と柳並木が続き、
風流な宿場町だったそうです。


現在、
本陣は、
古い門と塀が残り、
「旧山陽道 高森本陣跡」と書かれた、
本陣の標柱・標識もあります。



丸穴石燈籠、  丸穴手水鉢も あります。








なまこ壁の塀
高森宿の町並み。なまこ壁の塀が見事です。

この建物は酒造場・造り酒屋だったそうで、
造り酒屋を営んでいた中村酒造跡だったそうですが、
平成21年に取り壊されました。







六角 長方形穴 石灯籠。





角が丸い長方形穴 手水鉢。







舟型手水鉢 背もたれっぽい。
中は 角が丸い長方形。











ここに小さな社がありますが、
中市の恵比寿社の祠と 思われます。
 
 
 
参拝します。
商売繁盛とお酒の神様 を祀ったお社。

御祭神:
 蛭児大神(えびす様)

 国常立神(くにのとこたちのかみ)
 豊雲野神(とよぐもぬのかみ)・
 角杙神 (つぬぐいのかみ)・
 意富斗能地神(おおとのぢのかみ)・
 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・
 伊邪那美命(いざなみのみこと)・

土地の民が尊の徳を称え、
家内安全、無病息災、五穀豊穣の神々として
広く住民に崇め祀られて参りました。
商売繁盛・縁結びの神である、えびす様を合祀。
「人、仕事、縁づくりの福の神」




親子ガエルの つくりもの がいます。









これと道を挟んだところに妙見社への道しるべがあります。
今の時期、ピンクの ネムノキの花が きれい。

北方向が山代へ至る山代道、
南方向が柳井へ通じる柳井道で、
山代道角地には 小さな妙見道標・「妙見道」の道標があります。
 
道標は
「是妙見 
 安政二卯 神代村」とあります。
    安政2年、1855年は、乙きのと卯う です。






調べると、

江戸中期明和年間以降、
島田川を改修して川船が通され、
高森ー浅江(現光市)間を 運航し、
高森は荷物の集散地として賑わいました。
船運の発展に伴い、
寛政4年(1792)から熊毛代官所に
専任の「高森御物送り役」が置かれ、
幕末の慶応年間まで続いた。
古い町並は旧山陽道に沿って展開している。
かっては山陽道を2分して 中央に用水溝が設けられていたそうだ。
高森本陣の建物をはじめとして伝統的な様式の家屋が数多く残るが、
妻入りの家屋が多い。
平屋であったり中2階建て、2階建ての建物が混じっているが
いずれも妻入りの建物です。

20mほど進むと受光寺。
 
 
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6:27追記
 
中村酒造跡。
家栄(やえ)の司というお酒、
 
 
小さいころの CMを 今も 覚えています。

今でも 歌えますよ。


♪やえ↑の ↑つーー ↓か ↑さーー
 やえ↑の ↑つっ・↓か・ ↑さーー
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~
調べると、
 

やえのつかさ【家栄の司】

 

山口の日本酒。蔵元の「中村酒造」は天保元年(1830)創業
現在は廃業は岩国市周東町にあった。