周南市大向の「式内社二俣神社」です。R315沿いです。

 

旧都濃郡(徳山・下松地区)唯一の式内社,と、入口に大きくかいてあります。

 

見どころが多く、長くなりそうなので、何回かに分けて

書きたいと思います。

 

 

狛犬様は全部で5対。

 

境内には、道案内の神様、猿田彦大神があります。

 

左奥には、風の神様、杵前(きさき)大神があります。ここのは、杵崎と字が違います。

 

右側には、学問の神様、菅原神社、石鳥居1基。

 

その右側に、縁結びの神様、出雲大社大向教会があり、一本彫の大黒様があります。

ここの神紋は、出雲大社と違い、「亀甲に<大>」です。

大向の「大」なのか? 出雲大社の「大」なのか?

 

R315沿いに、一の鳥居があり、

元禄元年(1688年)で、

 

 

 

一の鳥居近くの狛犬様は、

明治38年1905年2月で、右が角付き狛犬です。

阿吽の位置が逆です。

 

 

 

1801年享和元年、辛かのと酉とり9月、の常夜灯、

「周防國都濃郡社、式内二俣神社」と彫ってあります。

 

二の狛犬様は、昭和15年1940年10月で、

 小玉咥えと、小玉転がし角付き。

 

昭和10年1935年10月の馬場。

 

もとは金峰山(キンポウザン)山麓に鎮座していたが、

江戸時代の天明2年(1782)、現社地へ遷座したそうです。

 

 

 

周南市大向の「式内社、二俣神社」です。R315沿いです。

 

 

 

徳山管内、旧都濃郡(徳山・下松地区)唯一の式内社,と、入口に大きくかいてあります。

 

 

見どころが多く、長くなりそうなので、何回かに分けて

書きたいと思います。

 

 

狛犬様は全部で5対。

 

 

2,3,4番目は、3連続で。

 

 

境内に、道案内の神様、猿田彦大神があります。

 

 

 

 

左奥には、風の神様、

「杵前(きさき)大神」

があります。ここのは、普通の杵崎と字が違います。

 

 

 

右側には、菅原神社、

大正9年の石鳥居1基。

 

 

 

その右側に出雲大社大向教会があり、

一本彫の大黒様があります。

 

ここの神紋は、島根やほかの出雲大社と違い、「亀甲に<大>」です。

大向の「大」なのか? 出雲大社の「大」なのか?

 

 

 

 

R315から見ると、

 

 

 

 

R315沿いに、ギプスつきの、一の鳥居があり、

 

 

 

郷社の社号標を乗せた亀。明治二十五年.

 

 

 

 

 

一の鳥居近くの狛犬様は、

明治38年1905年2月で、右が角付き狛犬です。

阿吽の位置が逆です。

 

 

 

明治38年1905年2月。

 

 

「大向 字・・・七?」

 

 

 

「大向村」 1801年享和元年、辛かのと酉とり9月15日、の常夜灯、

 

 

「周防國都濃郡社、式内二俣神社」と彫ってあります。

 

 

 

 

参道

 

赤いナンテンが たくさん。

 

 

3対の狛犬様が 見えてきたゾ!

 

 

二の狛犬様は、昭和15年1940年10月で、

 小玉咥えと、小玉転がし角付き。

 

 

小玉転がし、角付き。

珠を押さえています。

 

 

尾っぽと身体の間に 穴が開いています

 

 

馬場を奉納した石碑。

昭和10年1935年10月の馬場。

 

 

近くに、かわいいカエルも。

 

 

 

 

長くなったので、

 

 

3番目以降の狛犬様は、

明日以降に。

 

 

 

 

 

 

 

神社について、調べると

 

”主祭神《主》大物主(大)神、八千矛(大)神、(櫛)稲田姫神 (命)

 

ご由緒

 

式内二俣神社は、今から1830年前の

大和時代、成務天皇時代の成務59年(西暦189年)に創建され、

 

大物主大神・八千矛大神・櫛稲田姫命の三柱を御祭神とし、

爾来地区の氏神様として崇拝、今日に至っている。

 

当神社は、

平安時代の延長5年12月(西暦927)延喜格式の選上により、

旧都濃郡管内(現在の旧熊毛町を除く周南市・下松市)で一社のみ延喜式内社として登載されており、

格式の高い神社と云える。

 

またこの間、神社の主たる造営を防長寺社由来記に見れば、

 

室町時代、延徳元年4月(西暦1489)に多々良弘武が、

 

織豊時代の慶長3年11月(西暦1598)毛利輝元が造営したとされており、

現存のお宮の形態が保たれているのではないかと思考される。

したがって、「一に三ツ星の毛利の紋所」は、この時代に附されたものと推測できる。

 

 

もとは金峰山麓に鎮座していたが、

江戸時代の天明2年(1782)、現社地へ遷座。

 

当社の神紋は、神社名鑑によれば「亀甲に三本槍」。

 

形状は、槍と云うより「矛」。

祭神、八千矛神に因んだものか、社名「二俣」によるものか。

 

社殿後背の面積約800平方mの社叢は、樹齢約300年の自然林の様相が保たれ、

山頂には目通りの周囲3.7m、樹高約20m、自生の檜が一本見られる。

主な大木は

ツクバネガシ、ウラジロガシ、アカガシ、アラカシ、アカシデ、ユズリハ、

アオキ、アセビ、サカキ、シキミ、が混生し、

特徴ある天然の樹立はきわめて少なく、珍らしい社叢とされ、尊厳な鎮守の森である。”

 

 

 

 

ということです。また、

”天正十九年(1591)九月二十三目の

「二俣神 社本記之寫」によると、

 

成務天皇の御宇二俣山に大物主神、 八千戈神、稲田姫命を安置して以来、

代々仲子(なかのこ)氏が宮司を 勤めたと傅へてゐる。

社地については、

 

「金峰山其高サ貳 拾町餘三峰高圓にして兩嶺ハ二俣神社之敷地寶艮日出山と 名附、

此一峰の脇常盤の瀧此瀧の内より清水出る是を號て 瀧ノ明神といへり、又二俣宮眞名井の水とも號す」

とあつて、

本来は現社地の前方を北から南へ貫流する錦川を越えた東方の金峰山にあった

としてゐるが、

この地より現社地に遷祀されたのは天明二年と傅へられる。 ”

 

ということです。

 

続きは、明日以降に。