間寛平ちゃん地球一周、きのう、大阪城に。
すごいですね。よく頑張ったと思います。
 
英BBCが被爆者をジョークに?、
広島で被爆し、長崎でも被爆された山口さんを、世界一運が悪い人として笑うとは
許せない。
唯一の被爆国として、もっと世界に訴えるべきです。
 
 
小嶋登氏死去、
卒業歌「旅立ちの日に」の作詞者
全国各地の学校で卒業式に歌われている合唱曲「旅立ちの日に」を作詞した、
元埼玉県秩父市立影森中学校校長)
1月20日午前1時、急性心筋梗塞のため埼玉県秩父市の自宅で死去、
80歳。埼玉県出身。
葬儀・告別式は1月26日午後1時から秩父市上影森829の1、メモリアルホール秩父で。
喪主は長男直樹(なおき)氏。
 
 影森中の校長を務めていた1991年3月、音楽教諭の高橋(坂本)浩美さんから
「何か卒業生の 記念になるものを」
と提案され、
一晩で「旅立ちの日に」の歌詞を書き上げた。
高橋(坂本)さんが曲を付けたこの歌はその後、卒業式の定番曲として全国にじわじわと広まり、
音楽の教科書にも載った。
 
 
平成3年、1991年、
 
 
 
実際の映像、
旅立ちの日に

作詞 / 小嶋 登 

作曲 / 坂本(現、高橋) 浩美

E白い光のB中に  A山並B7みは萌えE

C#mはるかな G#m7空の果てまでも F#m7君は飛び立B7
 
E限りなく青Bい 空にC#m心(こーころ)ふBるわAせー
F#m7自由B7をかけるEC#mよ 振りA返るF#m7こともせB7
 
E勇気をB翼にC#m7込めG#m7て F#m7希望の風に乗B7
Eこの広Bい大空C#mに 夢AB7託しE

2番
E懐かしい友 Bの声 AふとB7よみがえE
C#m意味も無い G#m7諍い(いざかい)に F#m7泣いたあのB7
 
E心通っBた嬉しさに C#m抱きあっBた日A
F#m7みんなB7過ぎたEけれC#mど 思いAF#m7強く抱いB7
 
E勇気をB翼にC#m7込めG#m7て F#m7希望の風に乗B7
Eこの広Bい大空C#mに 夢AB7託しE
 
 
A今(いま) B別れのG#m7時 C#m7飛びA立とう B7 未E来信じて
Aはずむ(はずむ) B若いG#m7力 C#m信じて
このA広い(この広い) このF#m7広い(この広い) B7大空E
 
A今(いま) B別れのG#m7時 C#m7飛びA立とう B7 未E来信じて
Aはずむ(はずむ) B若いG#m7力  C#m信じて
このA広い このF#m7広い
 B7大ーーーーーーーー(「おおーーーーーーっ」と長ーく伸ばす)  空(ぞら)E ーー
 
 
 
イメージ 1
 
 
荒れていた学校を矯正するために「歌声の響く学校」にすることを目指し、合唱の機会を増やした。
最初こそ生徒は抵抗したが、音楽科教諭の坂本浩美と共に粘り強く努力を続けた結果、
歌う楽しさによって学校は明るくなった。
「歌声の響く学校」を目指して3年目の1991年2月下旬、坂本は「歌声の響く学校」の集大成として、
「卒業する生徒たちのために、何か記念になる、世界にひとつしかないものを残したい」との思いから、
作詞を小嶋校長に依頼した。その時は「私にはそんなセンスはないから」と断られたというが、
翌日、坂本のデスクに書き上げられた詞が置いてあったという。その詞を見た坂本は、
なんて素敵な言葉が散りばめられているんだと感激したと、ラジオ番組への手紙で当時を振り返り語っている。
その後授業の空き時間に早速ひとり音楽室にこもり楽曲制作に取り組むと、
旋律が湧き出るように思い浮かび、実際の楽曲制作に要した時間は15分程度だったという。
出来上がった曲は最初はたった一度きり、「3年生を送る会」で
教職員たちから卒業生に向けて歌うためのサプライズ曲のはずであったが、
その翌年からは生徒たちが歌うようになった。ちなみに初めて披露した年度をもって、
校長の小嶋は41年に及ぶ教師生活を定年退職したため、小嶋が披露したのはこれが最初で最後となった。
その後しばらくは影森中学校だけの合唱曲であったが、まわりの小中学校でも使われだしたことで、1998年頃までには普及が拡大し、全国の学校で歌われるようになった。現在では『仰げば尊し』や『巣立ちの歌』、『贈る言葉』などから代わり、小中高の卒業式において全国で最も広く歌われている卒業式のとなっている。
 
芹洋子2005年3月24日に発売した同名のシングルカバーしたものが収録されている。こちらはイ長調である。
 
 フォークデュオの「トワ・エ・モワ」が2006年1月18日に発売したアルバムに収録されている。
 
 ダークダックスが2006年10月4日に発売したアルバム「遼遠(りょうえん)・謡遥(ようよう)・半世紀」にカバーしたものが収録されており、以降リサイタルでのレパートリーとしている。
 
 2007年にはSMAPCM曲として歌った。ただし、CDとしては発売されず、音楽配信のみとなっている。
 
 秋川雅史が2008年4月2日に発売したアルバム『千の風になって〜一期一会〜』でカバー。
 
 中孝介が2008年4月9日に発売した『』のカップリング曲としてカバー。
 
秩父市は功績を称え、作詞作曲した2人に「ふるさと文化賞」を贈った。
 

2007年3月15日に日本テレビ系列情報番組『ズームイン!!SUPER』のコーナー「バードウォッチング」で認知度を調べた結果95%であった。ちなみにその日は影森中学校の卒業式であった。

 

2009年には東京ディズニーシーのCMソングとして使われている。 影森中学校での思い出だけではこの詩は生まれず、 入間市の東金子中学校での思い出もあったからこそこの詩は生まれた。

 
 
ということです。
 
 
当時 中学校の校長だった小嶋登 校長は、
荒れていた学校を再生し歌声の響く学校にすることを目指し、
合唱の機会を増やし 子供たちの心を溶かしていきました。
生徒の卒業と同時に 校長先生も 学校からの退職
旅立ちの年を迎えていました。
音楽科教諭の坂本浩美先生は(現・高橋)
詩(歌詞)を 校長先生から受け取ると そのまま
音楽室に行き たった15分で メロディーを完成させました。

1991年 「3年生を送る会」で教職員が 卒業生に贈った
旅立ちの日に は、サプライズ曲で 影森中の 卒業生だけに残る
静かな 記念の曲となるはずでした。

ところが、影森中 以外の 小中学校にも
話題になっていき 松井編曲によって、
混声三部版、混声四部版、女声三部版、同声二部版が作られ
今では、卒業曲のスタンダードな1曲となっています。

2009年現在、作詞をした小嶋校長は、
影森中学校校長を最後に定年退職し現役教員から引退、
作曲を手掛けた坂本浩美(高橋)教諭は、
結婚出産を経て、02年から 埼玉県立秩父養護学校
(現在の埼玉県立秩父特別支援学校)に赴任 教職.を続けています。
高橋浩美作詞・作曲の曲で『Song is my soul』という合唱曲もあります。
 
 
お悔やみ申し上げます。