初の「セクハラ」訴訟、「9割9分は負ける」それでも「誰かが声を上げなければ」と闘い抜く…「全面勝訴」社会変える一歩に2024/03/12

判決直後に開かれた原告側の報告集会では、ほぼ全面勝訴を受け、支援者から拍手が起きた(1992年4月16日、福岡市中央区で)

判決直後に開かれた原告側の報告集会では、ほぼ全面勝訴を受け、支援者から拍手が起きた(1992年4月16日、福岡市中央区で)© 読売新聞

 法廷で深く息を吐いた。裁判長が判決を読み上げ始める。すぐに内容がのみ込めない。「おめでとう。勝ったのよ」。弁護士に言われても信じられなかった。

 1992年4月16日、福岡地裁。晴野まゆみさん(66)=当時34歳=は、日本で初めての「セクハラ訴訟」を起こした当事者として、そこに立っていた。実名ではない。匿名の原告「A子」として。

 裁判では、性的な嫌がらせを受けたうえ退職させられたと主張し、働いていた出版社側に慰謝料を求めていた。男性優位の風潮が根強く、セクハラという言葉も知られていなかった時代。名前をさらせば、バッシングされる恐れがあった。

 「男社会に弓を引こう」と起こした前例のない訴訟は事実上、全面勝訴だった。勇気を出して上げた声は全国に広がり、社会を変えていく。(社会部 押田健太)

■辻本弁護士「女性だから、会社を辞めさせられたの」

 年号が「昭和」から「平成」に変わった1989年1月。一人の弁護士との出会いが、前代未聞の裁判への扉を開いた。

 勤めていた出版社で、上司の男性編集長からセクハラ発言を繰り返され、退職に追い込まれた晴野(はるの)まゆみさん(66)は、福岡市の弁護士事務所を訪れた。向かい合った辻本育子さん(73)に被害を打ち明け、編集長を訴えたいと伝えた。

 「できるわよ、裁判。これは明らかに性差別。あなたが女性だから、会社を辞めさせられたの」

 明かりが差し込んだ気がした。編集長に謝罪を求めた調停は、「女性は男性の目を引くうちが花」と相手にされなかった。別の弁護士には「提訴すら難しい」と言われた。これで駄目なら諦めようと思っていた。

 辻本さんにとっては、待ち望んだ依頼だった。就職の際、女性だからと企業から採用を断られた。面接で「男性の補助的な仕事」と言われ、公務員の道も断念した。差別を受けた女性に寄り添おうと弁護士になり、独立して女性専門の事務所を設立したばかりだった。

 前例のない裁判だけに勝てるとは思っていなかった。「9割9分は負ける。だけど、今まで見過ごされてきた性差別という問題を社会に提起したかった」と振り返る。

■入院理由を「お盛んだから」上司が吹聴

 晴野さんが福岡市内の出版社に入ったのは、85年12月。幼い頃から本を読むのが好きで、文章を書く仕事に憧れた。大学卒業後、企画会社などを経て、たどり着いた念願の職場だった。

 情報誌を発行する会社は社員がほかに2人だけ。取材や編集、事務と何でもやった。サービス残業は当たり前で、手取りで10万円を切る安月給だったが、「仕事が面白くて仕方がなかった」。

 半年がたつ頃には、編集の中心を担うようになっていた。仕事を終え、友人や業務で知り合った人たちと酒を飲みに行くのが、ささやかな息抜きだった。

 ある朝、下腹部に立っていられないほどの痛みを感じた。「卵巣腫瘍」と診断され、手術のため入院することになった。編集長に事情を伝えた直後だった。

 「晴野が入院するんですよ。夜がお盛んだから、あっちが疲れちゃったというか」。電話で取引先に言い放つのを真横の席で聞いたという。ショックで言葉も出なかった。

 編集長の言動は、エスカレートしていく。書いた小説が市の芸術祭で入選すると、「実体験に基づくポルノだろう」。社内外の男性と「男女の関係になった」と周囲にウソを吹聴する。

 部下の自分が、仕事で目立つのが気にくわなかったのだろう。そんな日々が続いた88年3月、昼食に誘われ、その席で言われた。

 「不倫のことも全部知っている。会社に迷惑だから辞めてほしい」。確かに一時期、既婚者と交際していたことがあった。それを脅しの材料に使うなんて――。怒りで体が震えた。

 専務や社長に相談した。それから2か月後、専務に「明日から会社に来なくていい」と告げられた。退職しか選択肢はなかった。編集長は3日間の謹慎処分だった。専務は言った。

 「君は有能だが、男を立てることを知らん。男は男の味方をするもんなんだ」

■「全ての女性の問題」仲間集め

 訴訟を起こすにあたり、辻本弁護士からは宿題が出された。「仲間をたくさん集めて。全ての女性の問題だと、世間に認識してもらうことが大切になる」

 自らの経験をつづり、地元紙に投稿した。新聞社には、同様の被害を訴える手紙が50通ほど届いた。「みんな我慢しているんだ。誰かが声を上げなければ、同じことが繰り返される」

 情報を集める中、月刊誌の記事が目にとまった。日本では知られていなかった「セクシュアル・ハラスメント」の特集。「これだ。私たちが闘う共通言語を見つけた」と思った。

 女性差別の解消を訴える人たちの会合に顔を出し、訴訟への協力を呼びかけた。その輪はどんどん広がり、支援する会が誕生した。

 提訴に迷いがなかったわけではない。世間から好奇の目で見られるのは怖かった。それでも心に決めた。「最後まで闘い抜く」と。89年8月、編集長と出版社を相手取り、367万円の慰謝料を求める訴訟を福岡地裁に起こした。

 反響は想像以上だった。新聞やテレビで大きく報道された。〈バカめ その前に自分の顔を見よ〉。一部の週刊誌には、批判する記事が載った。「セクシャル・ハラスメント」はその年、新語・流行語大賞の新語部門の金賞に選ばれる。

 「プライバシーが侵害される恐れがある」。報道が過熱する中、弁護士は法廷で原告や被告を匿名にするよう求めた。裁判所は第1回口頭弁論で、その異例の措置を認めた。訴訟中に実名が公になることはなく、「A子」として振る舞い続けた。

■相手証人の侮辱に思わず「バチーン」

 証言台に立った元同僚の女性は、編集長がセクハラ発言や中傷を繰り返していたと言ってくれた。相手側は自分に対し、何度も同じような質問を浴びせてきた。

 「酒を飲むことに罪悪感はなかったのか」「世間的に恥ずかしいと思っていないか」。そのたびに「思っていない」と答えた。今よりも女性が酒を飲むことに偏見があった時代。だらしのない人間だと印象づける作戦なのだと思った。

 訴訟の終盤、最悪の事態が起きる。「原告は性的な話題が好き」「淫乱」。相手の証人で出てきた顔見知りの男性が、笑いながら虚偽や誇張交じりの発言を繰り返す。「もうやめて」。衆人環視の中で、性的暴行を受けているような屈辱に心の中で叫んだ。

 次の期日にも、その男性は出廷した。終了後、裁判所の廊下で、支援者が男性に「あなたはウソつきだ」と詰め寄る。男性の見下すような態度を見た瞬間だった。

 「バチーン」。思わず、右手で男性の頬を平手打ちしていた。弁護士に「彼を殴りました」と伝えると、涙があふれた。「終わったな」。誰もがこの訴訟は負けると思った。

 92年4月、判決が出た。編集長と出版社に165万円の支払いを命じるほぼ全面勝訴だった。

 判決は、まだなじみのなかったセクハラという言葉を使わなかったものの、編集長の異性関係などの発言が、不法行為にあたると判断。会社にも、男女を平等に扱うべきなのに女性の譲歩、犠牲で職場環境を調整しようとした責任があると認定した。

 裁判長だった川本隆さん(87)=写真=は「最初は単なる職場のトラブルだと思っていた」と明かす。考えが変わったのは、飲酒を巡る法廷のやりとりだった。「男がいいのに女はダメというのは、おかしい。性差の問題だと気付かされた」

 セクハラの文献や海外の判例を読み込み、「日本は遅れている」と感じた。「セクハラの問題として扱わなければ、違う結論を出していたかもしれない。判決には世の中が変わってほしいという思いを込めた」と語る。暴行については、訴訟とは直接関係がないため考慮しなかったという。晴野さんは傷害罪で罰金20万円の略式命令を受けた。

■「原告は私です」、実名明かし取り戻せた自分

 判決はそのまま確定したが、別のことで悩んだ。週刊誌から、手記の依頼が寄せられた。退社後はフリーライターとして働いていた。実名で自分の気持ちを書きたいと思ったが、弁護士や支援者から「読者は男性ばかりで、あなたの痛みは伝わらない」と反対された。

 自分の思いを優先するのか、お世話になった人たちの意向に従うのか――。「晴野まゆみ」と「A子」の間で心が揺れ動いた。苦悩した末、仮名での執筆を決め、ホテルにこもった。

 2年8か月に及ぶ裁判を闘い抜き、身も心もボロボロだった。ストレスから、大嫌いだったたばこを吸うようになっていた。

 15階の部屋から景色を眺めた。湧き上がったのは「A子から解放されたい」という思い。「ここから飛び降りれば楽になる」。窓を押したが、わずかしか開かない。直前に電話をした友人が駆けつけてくれ、思いとどまった。

 初めて人前で事実を明かしたのはそれから3年が過ぎた95年8月。参加したセミナーで、自分をさらけ出すよう求められた。「セクハラ裁判の原告は、私なんです」。思い切って口にした。ようやく自分を取り戻せた気がした。

 新聞に実名で登場し、講演で体験を語った。訴訟を通じ、「編集長も男社会の被害者だった」という思いを強くしていた。「男として仕事では女に負けられない」。そんな古い価値観にとらわれていたのだと。

 だからなのだろう。判決から10年ほどがたち、仕事先であの編集長と再会した時、何の感情も抱かなかった。「お久しぶりです」とあいさつした。目を背けた相手からは、「おう」という短い返答が返ってきた。

■「おかしな時代もあったね」いつか言える世に

 結婚し、2012年には「チームふらっと」という会社を福岡市に設立した。社名には「誰にも平等な会社に」との思いを込めた。今はスタッフ2人と観光情報を発信するサイトを運営し、冊子を作っている。

 あの訴訟後、女性たちが次々と立ち上がり、同様の訴えが各地で起こされた。男女雇用機会均等法が改正され、1999年4月から事業主にセクハラの防止や対策に努める配慮義務が課された。だが、セクハラや性差別は今も後を絶たない。

 最初に立ち上がって35年が過ぎた。「誰かが声を上げ、次の人にバトンを渡していく。そうやって少しずつ意識を変えていくしかない。いつか『おかしな時代もあったね』と言える世の中になってほしい」。その日が来ることを願っている。

■押田健太記者

 おしだ・けんた 2017年入社。盛岡支局などを経て、昨年9月から東京社会部。生まれたのは判決の2年後で、取材を通じ、当時のセクハラを巡る不適切な実態に驚くとともに、問題の根深さを改めて痛感した。30歳。

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