松本人志さんの件 「イヤならイヤと言え」性被害の声あげた人を叩く女たちの“被害者フォビア”は胸が痛い 北原みのり 2024/01/24

松本人志さんの件 「イヤならイヤと言え」性被害の声あげた人を叩く女たちの“被害者フォビア”は胸が痛い 北原みのり

松本人志さんの件 「イヤならイヤと言え」性被害の声あげた人を叩く女たちの“被害者フォビア”は胸が痛い 北原みのり© AERA dot. 提供

 作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は松本人志さんの件で考えた、被害の声をあげた女性を女性が激しく叩くことについて。

*    *  *

 遠い知人の話である。

 今は50代の女性だが、30年以上前には芸能界を目指していた時期があり、実際にテレビや雑誌に出たこともあった。ちょうど売り出し中の頃、同じ番組に出演していた某男性大物芸能人に「食事に行かない?」と誘われたことがあるそうだ。そんなチャンスはめったにないと思い、彼女は「もちろんです!」と答え食事に行った。食事が終わると、今度はその男性に「二人きりにならない?」と言われ、躊躇はしたが、将来につながるかもしれないと思い、誘われるままホテルに行き性交したという。もちろんだからといって彼女の芸能活動に、そのことは全く何の影響も与えず、彼女はしばらくして芸能活動を諦めることになる。

 そんな彼女は今回の松本人志さんを巡る報道に、モヤモヤするのだという。「女にも、下心があったはずだ。被害者ぶるのは、ずるい。イヤならイヤと、その時に言えばいいんだ」と。

 胸の痛い話である。

 性被害の声をあげた人に対し、「目的は何だ?」と疑いの目を向け、「何で今になって騒ぐのだ?」と声をあげた時期を問い、「イヤなら断るべきだった」と行為の責任を問うことなどを「セカンドレイプ」と呼ぶと定着はしてきたけれど、それでも、彼女のように、客観的にみれば性的搾取にあっているとしか思えない女性が、同じような目にあった女性を激しく叩くことを、何と呼ぶのだろう。もしかしたら専門的な言葉があるのではないかと思われるほどに、あまりにもよくある話である。

 女子プロレスラーのジャガー横田さんYouTubeチャンネルを観た。「松本○志は悪くない!!」と動画にテロップをつけ、「(女性が)ヤダって言えばいいじゃん」「お前が断れよ」などと述べた。ジャガーさんは、肩を組んでくる男性ファンには「私は結婚しているので、やめてください」とキッパリ断るのだとも言ってた。このように「私は断れる」と言い切り、「なぜ断れないのか?」と性的被害を訴えた女性を責めるのも、「強い女性」によく見られる傾向だ。

 こういう現象=女が性被害の声をあげた女を叩く現象のことをなんて言うのだろうと考えていたのだが、「被害者フォビア」というのが、ぴったりではないかと思う。フォビアには嫌悪や恐れという意味があるが、被害者になることを恥じて恐れるあまりに、自らが被害者になってもそれを認めることができず、さらに被害を訴える人に対する嫌悪をぶつけてしまう心理状態だ。特に性暴力や性搾取に関して、「被害者フォビア」としか言いようがない女性たちは少なくない。いったい、なぜなのだろう。

 古い話だが、小説家の松浦理英子さんが1992年に「朝日ジャーナル」に寄稿した、「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない」というエッセーがある。今となっては忘れられたテキストだが、長い間、日本のフェミニストに読み継がれてきた。

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 簡単にまとめれば、“性暴力が女への侮辱だと捉えること自体が性加害者の思うつぼである”だからこそ「レイプなんて何でもない」とレイピストを嘲笑すべき”ということが、「強姦ごとき」というような強い言葉を使い、激しい口調で記されていた。もちろん、性被害者を攻撃する意図はなく、性暴力抗議として書かれたものではあるが、当時、かなり物議を醸したものだ。

 当時、このエッセーを誰よりも評価したのが上野千鶴子さんだった。だからこそ、大学生だった私も、意味わかんなーいと頭を抱えながらも何度も読んだものである。

 上野さんは松浦さんのこの寄稿文を権威ある『新編日本のフェミニズム』(岩波書店2009年)の「セクシュアリティ」巻に収め、「私でなければ誰も採用しなかったと思う。彼女の発言は、空前絶後、追随者がいない」「(いまだに)性暴力に関しては、『性暴力で女は傷つく』っていうポリティカル・コレクトな言説しか、言うことを許されてない」(『毒婦たち』河出書房新社、2013年)と話している。実際、多くの有名どころのフェミニストは、この松浦さんのテキストを肯定的に引用し本を書いたり発言したりしてきたものだ。

 冷静になってみれば、なんか昔のフェミニズムって乱暴でしたよね……とため息一つ……というテキストである。まさにこれが「被害者フォビア」なのだとも思う。

「レイプごときで苦しむなんて加害者の思うつぼよ。性加害者を嘲笑しなさい」と言われたところで、被害者には地獄が深まるばかりだ。たぶん、このテキストを知的に読み込んで性暴力問題の言説を解体しましょう〜!というフェミニストの試み自体が、この国で、性暴力問題から性被害当事者の声が置き去りにされてきた現実を表しているのだろう。実際この社会で#MeTooの声をあげ、性暴力問題の正面に立ち、性犯罪刑法を改正するまで社会を変えたのは、権威あるフェミニストたちではなく、市井の女性たち、性被害当事者の声だったことからも明らかだろう。

 性被害者が「心が痛い」と叫び、「性」暴力だからこそつらいのだと怒り、何年後になっても声をあげることを諦めないと思える社会を、私は良い社会だと思う。なぜならば、被害者が「私は被害者である」と声をあげるのは、「加害者」の存在を浮かび上がらせるためだからだ。被害者を嫌悪し、恥と感じ、蔑むような、そんな苦痛から、女たちが自由になればよいのにと思う。私たちは手をつなげるのだと、信じられればよいのに。

 

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