母がくも膜下出血で倒れてから、

救急病院での入院が1ヶ月ほど続いた。


私は毎日

自宅から実家に通い、

昼食を作った。


朝実家に着くと、

座椅子に座った父がこたつに入って

テレビを見ていたり、

座ったまま寝ていたりした。


父は朝5時頃に起きて

毎晩実家に泊まっていた兄と共に

朝ご飯を食べていた。


その後

兄は実家の工場の仕事をし、

父はしばらくゆっくりする。


その時間に

テレビを見たり、少しうとうとしたりする。


私は今でも

実家に着いた時の父の様子が

何度でも頭に浮かぶ。


今となっては、

何とも切なく

愛おしく

そんな父に会えないのが

悲しくて仕方がない。


昼食を終えると、

私は花に水をやり、

明日の昼食の買い物に歩いて出かけた。


晩ごはんは兄嫁が担当してくれていた。


15時になると、

おやつの時間で

コーヒーと少しのお菓子を

父は楽しんだ。


父は意外と時間を決めて、

それに合わせて行動していた。


そのおやつの時間が終わると、

私は母の病院に

着替えや差し入れを届けに行った。


面会時間が15時から17時だったので、

その時間帯に病院に行った。


母は

次第に病院食が食べられないことが

増えてきた。


あまりに食べないと

体力が落ちてしまうので

何か食べられるものがあれば

差し入れてあげて下さいと

主治医から言われ、

母が食べたいものを聞き、

できるだけ差し入れた。


もともと偏食だった母なので、

しっかり食べることは難しかった。


リクエストは

アイスクリームや菓子パン、

時には

デパ地下に売っている〇〇のお弁当など

母は伝えてきた。


私はそれを買うために移動することも

なかなかた大変だったが、

何とか母が

少しでも元気になれるならと思い、

差し入れた。


1ヶ月が経つと、

母は毎日のように

「早く家に帰りたい」と

電話で言うようになってきた。


確かに帰りたいだろうなぁと

私も思った。


慣れ親しんだ我が家に帰りたい

その気持ちはよく分かった。


しかし、

母はまだ歩くこともなかなか難しく、

くも膜下出血に拠るものかわからないが、


何となく歩きたくない、

リハビリとかしたくない、

ずっと寝ていたい


というように

やる気がない日も出てきた。


帰りたいのはわかるけれど、

もう少し動けるようになるまで

リハビリをがんばってほしい、


それは

病院の先生や看護師さん、

私たち家族の思いだった。


何とかここをがんばって

この時期を乗り越えて

少しでも元気になって

家に帰ってきてほしいと

みんなが願った。


でも母は

とにかく帰りたいという思いだった。


早く帰りたいと言う母の電話が

私や家族にとって

とても辛いものになっていた。


この時期のリハビリが

実はとても重要で、

この時期が

これから先寝たきりになるか、

以前のように歩けるようになるかの

わかれ道なのだ。


母も家族も

みんなが辛いのだが、

一番がんばって乗り越えないとならない

時期に母は差しかかっていたのだ。