石炭をいかした人々・・・五回目 | 隠居の暇つぶし

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そして、松下村塾関係の人物紹介です。


直雇いに鉱夫充てる・・・組長「敬称略」
日本刀をひっさげた坑夫の親方連中を前に、沖の山炭鉱
事務長の俵田軍太郎「宇部興産初代社長の兄」、

黒金「こっきん」とあだ名がついたほどの色黒の精悍な
顔をひきしめた。

明治の末、宇部村小串の自宅でのこと。

親方連中は、自分たちが口入れ「世話を」している坑夫
を炭鉱の直接雇いの形式に改める、という話に血相変え
てかけつけたところだった。

日清戦争は宇部に小鉱乱立をもたらしたが、十年後の日
露戦争は、大型化を促した。

福岡鉱山監督署などの調べによると、明治二十九年には
七十三抗あり、内訳は年間五万トン以下が六、一万トン
以下が八、五千トン以下が十三、千トン以下が四十六。

ところが明治四十年には、千トン以下が二十、五千トン
以下が七、と小鉱が整理され、代わりに五万トン以下は
八、十万トン以下が一、と増え、坑数は四十と減ったも
のの、出炭量は激増「十九万トンから二十九万トン」し
た。

沖ノ山炭鉱も、その数年前には長壁式採炭技術を筑豊か
ら導入し、坑夫の賃金、入坑歩合を一定の額に定め、明
治四十四、五年には、その他従来の宇部式鉱業の作業上
事務上に就いて一大革新が行われ、出炭量も十五万トン
になった。

筑豊から流れてきた、前出の吉原作太郎といった、口入
れ屋、納屋頭らの親分衆。

小鉱乱立時代でこそ便利な存在だったものの、技術が進
み、炭鉱側が労働者を直接管理しないと計画的作業がで
きない時代になると、

「仲間同士が、日本刀で渡り合い、刃傷沙汰が絶えなか
った。

仕事の関係や金銭の貸し借りで、坑夫からドスを突きつ
けられ危険な目に会った」

明治三十九年神原炭鉱へ入った磯山弥三郎「元宇部興産
本山鉱業所鉱務部長の、宇部興産六十年の歩みへの寄稿
のような状態はかえってじゃまになった。

軍太郎は詰め寄る親分連中に「理非を解き、事なく退散
させた」と、俵田明伝に記されているだけで、この場面
の詳しい様子、成り行きはわからないが、

大正初年には、納屋には十人長制度ができ、のち組長と
いわれた炭鉱直雇いの鉱夫たちが、その昔の納屋頭にと
ってかわった。

明治二十一年、雑誌日本人が、長崎、高島炭鉱の圧制の
惨状を暴露して以来、二十五年施行の鉱業条例も、鉱夫
の傭役保護について、規定を設けるきっかけとなった納
屋制度。

筑豊では、明治三十二年が改廃の端緒となったが、宇部
でも十数年遅れて、当面した初めての労働問題だった。

しかし、制度導入ですぐ坑夫の生活そのものが、改良さ
れた、というわけではなかった。

組長は、炭鉱の保安係の下で、仕事の指示を受け、十人
から二十人の坑夫を預かって飯場をつくり、人繰り「勤
務割り当て」から、生活の面倒を見、炭鉱から分金「ぶ
きん」という手当てを受け取った。

改廃当時は、ワラぶき、天井もなく、板にゴザをひいた
ような納屋もそのまま。

明治三十六年、島根県から宇部炭田に出稼ぎに来た、阿
瀬川文治郎の甥で、宇部市五十目山、宇部管工事組合勤
務の一雄は、組長制度が昭和十六年解散する寸前、東見
初炭鉱で組長をした。

「私のころも、中間搾取だと労組から問題にされた。

経営者には鉱夫の生活管理は任せ、採炭現場で効率的に
仕事をさせるためのいい制度だった」という。

炭鉱に、あらゆる意味で、近代的労使関係ができたのは
ずっとあとのことだった。

次回につづく