昭和時代「戦前・戦中」・・・十二回目 | 隠居の暇つぶし

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昭和時代「戦前・戦中」


ノモンハン事件・・・「昭和十四年」

さて、天皇制をとる日本にとって、君主を認めぬ

社会、共産主義は排除すべき危険思想といえた。


そのため、ソ連誕生以後、政府や軍は同国を仮想

敵国として常に警戒してきた。


満州国が建国されソ連と国境が接するようになる

と、そうした姿勢はいっそう強まっていく。


一方、日中戦争がはじまるや、ソ連は公然と蒋介

石の国民政府を援助するようになる。


国共合作が成り、国民党軍に毛沢東の共産党が加

わったからだ。


ソ連は、大量の物資や軍事顧問を派遣した。


こうした動きに、日本は、日独伊防共協定を結び

さらにソ連を仮想敵国とする、ドイツとの軍事同

盟の締結を急いだ。


そんななか、ソ連が満州国国境付近に兵力を増強

ソ連、満州、朝鮮の国境錯綜地帯である、張鼓峰

「ちょうこほう」に陣地を構築しはじめたのだ。


陸軍中央は、この機会に、ソ連軍に一撃を与える

必要を説いたが、近衛内閣と昭和天皇の反対で攻

撃は中止となった。


ところが、昭和十三年七月、現地司令官が独断で

ソ連兵を駆逐し張鼓峰を占領してしまったのだ。


ために、翌八月、ソ連軍の反撃が開始された。


同軍は、戦車や航空機、重火器で武装された機械

化部隊で、日本は大打撃を受けた。


ただ、戦線は拡大せず局地戦で終息、八月十一日

停戦協定が締結された。


翌年五月、日本は、再びソ連軍と武力衝突する。


満州国と国境を接する、外蒙古の部隊がノモンハ

ン付近から、しばしば、領内に侵入してきたため

日本の関東軍は、これを撃退したのだが、


外蒙古「モンゴル」と相互援助協定を締結してい

た、ソ連軍が介入、日ソの軍事紛争に発展した。

 

ノモンハン事件。


日中戦争が泥沼化しつつあったおり、早期決着を

図るためにも、ソと戦うべきではないとする意

見も強かったが、

 

関東軍は戦線拡大決断、第二十三師団を全面的

に投入した。


しかしながら、ソ連の機械化部隊の前に関東軍の

戦車はブリキのおもちゃであり、日本兵が投げる

火炎瓶では、ソ連軍の戦車には蚊がさした程度の

損傷しか与えられなかった。


鎧兜姿の武者と、素手で戦うような無謀さの結果

八千七百十七名の戦死、不明者と一万九百九十七

名の戦傷病者を出すという歴史的な敗北を喫した

のだ。


そんな状況であったにもかかわらず、関東軍は戦

いを止めるどころか、全兵力をこの戦闘に投入し

ようと決意したのである。


もし、これが実施されていれば、日ソ全面戦争に

発展、数年早く、日本は敗戦を迎えていた可能性

もある。


だが、事態は意外な方向へ進展する。


昭和十四年八月、日本と防共協定を結んでいたド

イツが突如、独ソ不可侵条約を結んだのだ。


まさに、寝耳に水の裏切り行為で、時の平沼騏一

郎内閣は、この責任を取って総辞職した。


いずれにせよ独ソは提携し、翌九月、両国そろっ

てポーランドへ攻し、第二次世界大戦が勃発す

る。


ちなみに、日ソ間の戦闘は停止、まもなく停戦協

定が成立した。


次回につづく