国 司 信 濃 像
国司信濃守親相
宇部市の船木地区の北に、万倉地区があります。
この地は、代々毛利宗家の重臣を勤めてきた、国司氏
千九百石の給領地でした。
その二十一代国司信濃親相は、萩藩士高洲平七元忠の
次男として萩城下に生まれ、六歳で、国司家の養子と
なり家督を継いでいます。
彼は、文久三年「一八六三」中老「一代家老」職に任
ぜられて、赤間関防備総奉行となりました。
そして、元治元年「一八六四」七月には、益田、福原
氏の二家老と共に、兵を率いて京都へ進発し、天竜寺
に布陣して、蛤御門へ向かいましたが、
賊軍の汚名を受けて帰藩しました。
この年長州は、外国艦隊による馬関攻撃、さらに幕府
連合軍の長州征伐など動乱の渦中にあり萩藩は三家老
の切腹により幕府に謝罪することになりました。
元治元年「一八六四」十一月十二日、国司信濃守親相
は、徳山の澄泉寺で自刃し、二十三歳の花の命を散ら
しました。
○ よしやよし 世をさるとても わが心
皇国のために なをつくさばや
なお、万倉伊佐地に、国司家の居館がありました。
現在居館跡には、次のような歌碑があります。
○ 跡たれて 君をまもらむ みどりそふ
万倉の山の 松の下かげ
三家老の切腹によって、福岡城外平尾にある、野村望
東尼の山荘に居た高杉晋作は、十一月二十五日下関に
帰りました。
そして、元治元年「一八六四」も暮れようとする、師
走の十五日、高杉晋作の功山寺挙兵となるのです。