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灰田勝彦は、明治44年、政府の移住政策で広島からハワイに移住した医師・灰田勝五郎の三男としてハワイ州ホノルルに生まれました。
本名、灰田稔勝。
父親の急死で、納骨のため二男と広島に一時帰国、訳ありでそのまま日本に住むこととなります。(港で全財産盗難に遇う)
灰田兄弟は父の後を継ぐため医師を目指して勉強しますが、勝彦はサッカーに夢中となり断念します。
その後、立教大学に進学し野球に夢中になる傍ら、兄が主宰した日本初のハワイアンバンド「モアナ・グリークラブ」に入り、ボーカルとして活動し始めます。
この頃から、兄可勝は晴彦、弟稔勝は勝彦と名乗るようになり、日本初のスチールギターのこのバンドは、人気急上昇して、昭和9年、勝彦はポリドールから藤田稔の名でレコーディングしています。
昭和11年、立教大学卒業後、兄の所属するビクターから『ハワイのセレナーデ』でデビューします。
その後、ハワイアンから流行歌まで幅広くレコードを出し、『雨の酒場』がヒットし出した時、軍隊よりクレームがつき、発売禁止を言い渡されます。
そして中国戦線への召集令状が来て、戦線暮らしで慣れない生活と疲労で身体を壊し、傷病軍人として帰国します。
取りあえずハワイ州生まれの灰田兄弟に、政府は何かと辛くあたりました。
しかし、勝彦は昭和14年に除隊となり、映画にも精力的に出演して、人気者となります。
特に、子役時代の高峰秀子との共演「秀子の応援団長」の中の挿入曲『燦めく星座』が大ヒットし、今までマイナーだった勝彦は、メジャーでの人気歌手の仲間入りとなります。
その後、『こりゃさ音頭』『お玉杓子はカエルの子』『森の小経』などが大ヒットします。
次へ続きます。