愚者は賢者から何を学ぶ | つむじ風はどこへ行く

愚者は賢者から何を学ぶ

今期のアニメはPSYCO-PASSがすごくいい感じだと思います

どうもです


そんなサイコパスの作品中の言葉で「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言がありました

まあ有名な格言です

経験論を学ぶ人が聞いたらぶち切れるんじゃないかと思うんですが(笑)、格言の本質はそこでもないのかなと思うわけです


というのも最近いろんなものを見て聞いて考えてるわけなんですが(最近に限らずいつでもだいたいそうなんですが)、僕の知識には「古典」が足りないなーと感じるのです

古典って言っても国語で言うところの古文とか漢文の話ではないです(笑)

もちろんあれもまさしく「古典」なわけなんですが、そうじゃなくってもっと広く、ある分野における過去の時代の名作というか、時代を築いたようなものの話です

大学の専門科目である物理学では流石に古典力学から順番に17世紀、18世紀、、、と繋いで今年になってようやく20世紀の学問を学ぶようになったくらいなんですが、自分の趣味とかそういう分野に対してはおよそ古典というものをしっかり学んだと言えないなと

まあ専門でも量子力学の中では古典書であるもの、例えばDiracとかそういうものは通ってないんですが、音楽にしても最近ちゃんと触れようとしている小説でも、わずかながらにインプットはしているものの、それに対して「学ぶ」というところまでは至ってないなと感じます

学ぶって言葉の語源は「まねぶ」=「真似る」だという話をどこぞで聞いた記憶がありますが、つまりは古典を踏襲するという過程をすっ飛ばしてアウトプットしているというか、そんな感じがするのです


もちろん現代のものでも時間が突然ワープしたりとか、文化が不連続的に繋がってるなんてことはないですから、当然その中には古典を踏襲したものが含まれているとは思うんです

そういう意味では古典を介さない現代などほとんど滅多にないと言えるのでしょうが、そもそも問題はそこではなくて、どこが古典的でどこが現代的かというのの区別がつかないことがまずいのではないかということです


というのも、これは僕の友達から聞いた話なんですが、村上隆がまさしくこういうような指摘をしていたらしく、それを聞いて僕も納得したわけです(「創造力なき日本」という著作に書かれていたそうです。僕もきちんと読みたいと思っています。)

まあこの納得の仕方も経験的というか直感的なわけで、それ自体もいささか危ないという気もするんですが



ここで最初の話に戻るわけで、賢者は経験に学ぶとはつまりこういうことなんじゃないかと思うのです

もちろん歴史を学んだだけではまだ足りないと思います

歴史との差、古典との差を効果的に描写することで(村上隆が指摘したのはまさしくこの点だったはずです)、初めて現代的な作品として確立できるのではないかと

そこに差が無ければそれこそ真似ごとで終わってしまうのではないかと思うわけです

ここに経験というものが活かされるのではないかと思うのです

(ではないかとってい言い過ぎなのではないかと思うのです)


先週の大学のとある授業で、とあるお偉い方がこうおっしゃっていました

「古典とはいつ読んでも新しいから古典なんだ」

なかなか胸を打たれる言葉でした

それって言葉の意味からして古典じゃないんじゃないかと言う人もいるでしょうけど、僕はこの言葉がすごく気に入りました

浅学ながら僕も、僕が触れた古典作品に確かに新鮮さを感じましたし

きっとこのお方自身に僕が好感を持っているということもあるのでしょうけれども


何事も学びのある世界は深い、深いものですね

愚かな僕も、少しずつ賢さを得て行きたいです